財政金融をめぐる豊臣兄弟の確執 #7 | 福永英樹ブログ

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【#7 熊野材木疑獄事件】

 豊臣秀吉が「補佐役 豊臣秀長と茶頭(政治顧問)千利休のコンビ」と袂を分かつ契機となったのは、利休の一番弟子で秀長の居城へも度々足を運んでいた山上宗二が、1586年に秀吉の怒りに触れて追放された時です。同年は徳川家康が紆余曲折(豊臣兄弟の妹と結婚)の末に秀吉に臣従した年ですが、師匠利休を批判したことがあるほど直情型の宗二でしたから、秀長や利休に代わって秀吉に対する不満をぶちまけた可能性があります。わだかまりを残したまま始まった翌1587年の九州平定ですが、ここでも秀吉は島津氏降伏のタイミングをめぐって秀長を叱り付け、戦後処理(論功行賞)についても一旦は認めた秀長案を覆して弟の面目を失わせました。さらにこの年の晩秋に秀長が重病に伏すと、秀吉が勝手に秀長の跡継ぎ(仙丸・丹羽長秀三男で秀長長女と婚約)を廃嫡し、姉の三男秀保を強引に秀長の養子にしてしまいます。翌1588年1月に回復した秀長は激怒しますが、石田三成と藤堂高虎のアイデアと奔走(仙丸を高虎養子へ)で何とか争いを消し止めたのです。そして夏になると家康が秀長と相談の上で北条氏規(今川家人質時代の友人)を秀吉と対面させますが、秀長も北条氏を平和的に臣従させるために氏規を自邸に招いて大いに歓待しています。(後の結果が示すように、秀吉は内心これが不満だったようです) また秋には秀長は家康や毛利一族を大和郡山城へ招いて奈良見物もさせていますが、おそらくその際に年貢米を元手にした資金運用を彼らに勧めたものと思われます。すべては豊臣政権と商業資本の共存共栄のためでしたが、従来の武家社会の価値観を覆しかねないその手法を嫌った秀吉は、遂にその年末に明確な秀長利休路線弾圧を断行します。


 当時秀吉は京都方広寺に大仏殿を造営中で、そのために大量の材木が必要でした。これを知る秀長は重臣の羽田正親・藤堂高虎・吉川平介を山奉行に任命して領内の木を伐採させます。このうち熊野で2万本を伐採した平介は大坂でこれを販売しますが、それが秀吉の知るところとなり、大和西大寺で斬首されてしまいます。多聞院日記や島津義久は『平介が木材を高値で売って私服を肥やした』と記録していますが、秀吉はしばらく秀長の面会も許さなかったといいます。ただ正親も高虎も同じ役目に就いていましたから、平介だけが秀長に内緒で単独不正を犯すとは考えにくく、彼は命令どおり需要と供給に応じ高値で材木を売ったものと私は想像しています。要は合戦で領地を加増される以外のやり方(商業参画や資金運用)で大名が裕福になっていく様子が、秀吉には気にくわなかったのでしょう。翌1589年の秀吉による大名たちへの金配りは、『そんな商人みたいなことをしなくても大丈夫だよ!』という彼のメッセージだったのです。つまりここで大名たちの領地拡張意欲が損なわれてしまえば朝鮮出兵への戦意が失われ、秀長利休路線にしてやられてしまうため、秀吉が強烈な釘を刺したというわけです。

(#8へ続く)