財政金融をめぐる豊臣兄弟の確執 #9(最終回) | 福永英樹ブログ

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【#9 関白秀次へ引き継がれた金融人脈(最終回)】

 豊臣秀吉の実子鶴松が1591年に僅か3歳で夭逝すると、秀吉の母 大政所(仲)と正室 北政所(寧)は、豊臣秀次(秀吉姉(智)の長男・1568~1595)に関白職を譲るよう秀吉へ迫ります。天皇の側にいるべき現職の関白が外征(唐入り)に専念することになれば、代わりに誰かが関白として京都に常駐しなければならないからです。ただ秀次には秀勝という弟も健在でしたから、秀次が彼女たちに推されたのは、この年の初めに死去した豊臣秀長の意向が反映されたからだと私は思います。

 秀次の初陣は17歳で迎えた長久手の戦い(1584年)でしたが、ご承知のとおり徳川家康にこっぴどく蹴散らされて惨敗してしまいます。秀吉から激しく叱責された秀次は大変落胆しますが、秀長が翌1585年の紀州征伐と四国平定で彼を補佐し、大将としての心得を伝授します。秀次は次第に立ち直って自信を回復し、1590年の小田原征伐では勝利の契機となった山中城攻めで大きな武功を挙げます。また恩人である秀長が重病になると、度々大和郡山城へ足を運んで叔父を見舞ったそうです。当時は外征による覇権主義の秀吉に対し、内政貿易重視の平和主義者秀長がそれについて諫言していた時期でしたから、自らの余命幾ばくもないと悟った秀長は甥秀次に後を託したものと私は想像しています。


 「太閤様軍記の内(秀吉が書かせた)」には、かつて秀長と共に秀吉の重臣として働き、山城国淀18万石の大名として秀次を補佐した木村常陸介重茲が、年貢米を商人へ貸し付けて高利をむさぼり、これをもって秀次をそそのかして謀反に及ぼしたと記されています。常陸介は家族もろとも死罪の憂き目に遭っています。また外征の戦費に苦しむ細川忠興が、娘婿で秀次側近だった前野長重を通して、秀次に黄金200枚を借りたといいます。忠興は家老松井佐渡守が機転を利かせて徳川家康に借金の肩代わりをしてもらったため無罪放免でしたが、多くの大名が秀次から借金をしていた事実が発覚し、流罪や他家預かりの刑に処されました。外征で大名たちが財政に苦しんでいたのは秀吉も知っていたはずで、秀次が彼らを救済したのは関白として当然とも言えるわけですが、秀吉が憎んだのは秀長利休以来の金融人脈が秀次に引き継がれていたことでした。つまり伝統的な武家の「御恩と奉公」とは別のところで金銭を通じた人間関係が形成されることを嫌ったのであり、それは領地拡大意欲に支えられた外征への戦意が、投資意欲に変わってしまうことを恐れたからです。従ってもし実子豊臣秀頼が誕生しなかったとしても、秀吉は政治理念やビジョンが異なる秀次を抹殺した可能性が高かったといえるでしょう。実際にキリスト教宣教師のルイスフロイスは、『秀次は内心秀吉の外征に批判的だった』と著書に記しています。

 秀吉のような覇権主義でこそなかったものの、徳川家康も土地を軸とした農本主義と封建的主従関係を踏襲したため、日本は幕末まで欧米諸国に大きく立ち遅れることになります。オランダやイギリスの17世紀における輝かしい歴史を見ても、商業や貿易における法やルールに則った自由な競争こそが近代化へ繋がっていきましたので、秀長利休路線(信長路線?)が潰されたことこそが、この国の近代化を阻んだといってよいでしょう。


 全9回に及んだ今回の投稿で皆様へお伝えしたかったことは、秀長は単なる優秀な補佐役ではなく、兄秀吉とは180度異なる先進的な理念とビジョンを保持していたことで、藤堂高虎があっさりと豊臣政権に見切りをつけたのも、主君の崇高な志を潰した秀吉への反発だったということです。