財政金融をめぐる豊臣兄弟の確執 #5 | 福永英樹ブログ

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【#5 莫大な大金を投じた織田信長の葬儀】

 明智光秀を倒した1582年の山崎の戦いでは、千利休が陣中に二畳隅炉の茶室を設け、そこで羽柴兄弟が死地へ向かう命懸けの固めの式を執り行いました。正に利休が彼らと運命を共にすることを誓った瞬間で、この茶室の移築先こそが現在の国宝待庵こと山崎妙喜庵です。そのかいもあって秀吉は見事に勝利し織田家における立場が大いに上がったわけですが、この勢いを阻もうとしたのが柴田勝家(信長筆頭家老)と織田信孝(信長三男)です。そこで自らが信長の後継者であることを世にアピールするために秀吉が採った策が、今の価値で10億円もの大金を投じた主君信長の葬儀(本能寺の変の4ヵ月後)です。


 信長の葬儀は当初彼の息子たちの手ですぐにでも執り行われるはずでしたが、秀吉派の次男信雄と勝家派の三男信孝の仲が悪いため話がまったく進みませんでした。(こうしむけたのは秀吉だと言われています) 『仕方がないから自分がやる』という絶好な形に持ち込んだ秀吉は、秀長や利休と親しい大徳寺の高僧 古渓宗陳を導師として大徳寺で葬儀を盛大に催します。秀長は自ら1万の兵を率いて葬儀の警備を担うと共に、諸寺の僧侶3000人以上(もちろん有償)を集め、金銀で飾り立てられた金沙金爛で包まれた信長の棺も用意しました。アピール上手な秀吉は信長四男で自らの養子である羽柴秀勝を喪主とし、彼に棺を担がせました。また信長の菩提寺として大徳寺内に総見院を建立するために、銀1000枚(2億円以上)を大徳寺に預けたといいます。結局信長の次男三男と柴田勝家は葬儀に出席せず、重臣では僅かに丹羽長秀の代理人が姿を見せたそうです。

 いくら近江三郡・播磨・但馬を領する大名とはいえ、領民から徴収する年貢米だけでこれだけの散財をするのは到底不可能であり、それを実現したのは秀長利休ルートによる資金運用が産み出した巨万の財でした。この勢いで勝家と信孝を賤ヶ岳の戦いで滅ぼした秀吉は、遂に天下人の居城に相応しい巨大な城郭を摂津大坂に築きますが、これだって領地の年貢米による歳入だけでは実現しなかったのです。そして1585年の四国平定を総大将として勝利に導いた秀長は、新領地の大和・紀伊で、利休と共に未来の政権財政運営を見据えた斬新な試みにチャレンジします。

(#6へ続く)