財政金融をめぐる豊臣兄弟の確執 #4 | 福永英樹ブログ

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【#4 独自人脈で宇喜多氏を取り込む】

 1579年の夏、かねてから体調が思わしくなかった軍師 竹中半兵衛重治が、播磨三木城主 別所長治攻めの陣中で病死します。半兵衛は病の床で羽柴兄弟へ『備前国 宇喜多直家の調略こそが毛利攻略の近道だ』と遺言します。堺鑑によれば、『その年の秋に秀吉が千利休の盟友で堺の薬種豪商である小西隆佐を使い、その次男で宇喜多氏に仕えていた小西行長を通して寝返り交渉をした』とあり、ここでも秀長・利休ルートが功を奏した形となります。しかし実は同時期に今井宗久が、秀吉宛に次のような手紙を送っています。『私の元へ宇喜多から使いが来て、織田への寝返りについて取次を頼んできた。実現すれば一族か重臣クラスの人質を出して織田へ従いたいとのこと。とりあえずは羽柴秀吉の指導を受けたいそうだ』 つまり備前は以前から豪商今井家の商圏であり、宗久もそれを利用して宇喜多氏の寝返り工作を試みていたということです。そのことは信長の耳にも入っていたようで、信長が秀吉に『断りもなく宇喜多を味方へ引き入れるとはけしからん!』と激怒したのは、羽柴兄弟による早期調略があまりにも想定外で決まりが悪かったからです。

 それでも宇喜多寝返りが毛利攻略を大きく好転させることは信長も承知していますから、間もなく宇喜多軍が羽柴軍へ合流することを許しています。そして宇喜多調略成功は毛利との戦いを優位にしたことに加え、主君信長の御用商人ともいえる今井宗久とは異なる別の商圏開発にも繋がりましたので、織田家における羽柴家の格付けランキングを飛躍的にアップさせました。秀吉はこの機会に行長をスカウトして直臣にしました。さらに毛利不利を知った荒木村重(信長に謀反していた)がすぐに籠城先から逃亡し、翌1580年初頭には別所氏も降伏したのです。これを受けた信長は秀吉に正式に播磨一国を与え、秀長にも兄とは別に但馬一国を与えました。信長が秀吉を通さず秀長へ直接恩賞を与えたのは、財政金融面における彼の功績を高く評価したからに他なりません。

 そしてこの2年後に本能寺の変が勃発すると、羽柴兄弟は豊臣兄弟となり、横死した信長に代わって全国を統治する立場になります。それが兄弟が袂を分かつ契機となり、特に秀吉はこれまで自分を助けてくれた秀長の財政金融手法を嫌悪するようになっていきます。あくまでも「土地本位の御恩と奉公」にこだわる兄秀吉と、国際社会における日本の未来を見据えた弟秀長(利休)ビジョンの静かで長い戦いです。

(#5へ続く)