豊臣最強のメンバーで勝利した根白坂合戦(島津攻略) | 福永英樹ブログ

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 豊臣秀吉の全国統一は北条氏を降伏させた小田原征伐(1590年)で完成しましたが、それが成ったのは弟豊臣秀長が四国平定(1585年)と九州平定(1587年)でスムーズな勝利をおさめたからに他なりません。特に九州平定は徳川家康も攻めきれなかったあの屈強の島津氏が相手でしたから、一歩間違えば再び戦乱の世に戻ってしまう危険性もあったのです。そしてこの島津攻略の勝機となったのが「根白坂の戦い」で、ここで大活躍したのが秀長を初めとする旧羽柴家の重臣たちと毛利一族の知恵袋小早川隆景で、正に豊臣軍最強のメンバーだったのです。


 秀吉は島津攻略にあたって自らの直属軍12万を肥後路で侵攻させ、秀長軍10万には日向路を進ませます。これを知った島津義久・義弘兄弟は軍を日向国(今の宮崎県)まで後退させ、日向で秀長軍と決戦することにします。そこで秀長が目をつけたのが、島津家老山田氏が僅か300人の兵で籠る高城で、これを攻めることで島津本軍を誘い出す策を謀ります。本来なら300の敵など相手にせず素通りしても良かったのですが、あの賤ヶ岳の戦い(1583年)で柴田勝家をおびきだして快勝した場面を再現しようとしたわけです。秀長は高城を全軍で包囲しますが、島津本軍が城を救援するために通る根白坂には60歳のベテラン武将宮部継潤(1528~1599)を配置します。宮部は旧浅井重臣でしたが、秀吉の調略で織田信長に寝返って毛利攻めが始まってからは、秀長と共に山陰地方(但馬・因幡)の攻略を担っていました。その頃から宮部の力量を高く評価していた秀長は、彼を最もリスクの高い根白坂に置いたのです。宮部は諸将の援助を受けながら、根白坂砦の前に強固な空掘や板塀を構築します。島津兄弟が押し寄せてきても一定時間耐えきるためにです。そうとは知らない島津義弘は自ら前線に立って激しい夜襲をしかけます。これを知った秀長は予定どおり宮部の救援を命じますが、秀吉が付けていた軍監(目附)の尾藤知宣が島津を恐れてストップをかけます。そこで主君の困った表情を見た藤堂高虎は、宇喜多秀家の家老戸川達安と共に島津本軍を奇襲します。これに翻弄された島津兄弟は反転して逃げますが、共に戦上手の黒田官兵衛と小早川隆景が宇喜多や蜂須賀家政と共に挟み撃ちにしてほぼ壊滅させます。一族の島津忠隣が討ち死にしたこともあり、島津兄弟は薩摩へ敗走し、これにて九州平定の大勢が決します。


 結局秀吉の九州平定で最大の武功を挙げたのは、秀長が総大将を務めた四国平定戦のメンバーでした。黒田・蜂須賀・宮部・藤堂といった中国毛利攻めで秀長と共に羽柴軍の主力を担った人たちと、四国平定で秀長との信頼関係が深まった小早川隆景という顔ぶれです。しかしこの勝利を機に、秀吉は彼らを次第に軽視するようになります。秀長が担ってきた外交は石田三成や大谷吉継や小西行長に任せ、官兵衛にはたった12万石しか与えませんでした。そしてこの頃から豊臣兄弟の間に隔たりが生まれ、豊臣政権に少しずつ歪みが生じていくのです。秀長や官兵衛は古くから仕えてきた上に有能でしたから、秀吉に意見諫言することも度々あったに違いありません。彼らを利用しなければならないうちは秀吉も我慢しましたが、九州平定で先が見えてきた段階で本音を隠す必要がなくなったということでね。あとは自分本位を垂れ流し、秀長死去後はあっけなく自滅していったのです。