秀長・利休が世に出した茶人小堀遠州 | 福永英樹ブログ

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 豊臣秀長と千利休の親交については拙著や当ブログでも度々紹介させていただきましたが、実はそれを示す一次史料はほとんどありません。一つは薩摩島津氏に圧迫されて領国豊後から上方の豊臣秀吉に援助を求めた大友宗麟が、秀長から『公儀のことはこの秀長に、内々のことは千利休が何事も承りますので、どうか御安心ください』と慰められたという有名なエピソードです。次に武功夜話(前野長康の手記)に記されたもので、余命幾ばくもない秀長を大和郡山城で見舞った長康が、秀長から『兄者(関白秀吉)が利休に苛酷な処分を下すことは不徳な仕置きで、天下も治まりすべての人々が平穏を願っている時になすべきことではない』と死力を尽くして告白されたエピソードです。そしてもう一つは、後に秀長の葬儀を担うことになる大徳寺の高僧古渓が秀吉の怒りにふれて流罪になった時に、利休が送別の茶会を開いて彼を慰めたことです。それ以外は二人とも秀吉の全国統一の翌年に死んでいることもあり、まるで揉み消されたかのように記録がないのです。しかし秀長の小姓で彼の死亡時僅か12歳だった小堀政一(遠江守・作助・1579~1647)の存在が、二人に親交と深い絆があったことの証になってくれているのです。


 遠州の父小堀政次は近江浅井氏の旧臣でしたが、浅井氏滅亡に伴い秀長の重臣の一人になります。秀長が大和・紀伊・和泉100万石の大大名になると、政次は5000石を与えられます。大和郡山を居城とした秀長は利休やその一番弟子の山上宗二(後に秀吉に処刑される)を城に招いて度々茶会を催し、幼い遠州にその給仕役を任せます。遠州の才能を見抜いた宗二は、彼を秀長や利休と親しかった大徳寺に参禅させる許可を秀長から得ます。秀長と利休が死ぬと、遠州は利休の二番弟子で侘茶の相続者ともいえる古田織部に師事しています。関ヶ原の戦いでは元秀長家老の藤堂高虎の勧めに従って徳川家康に味方したため、備中国松山城主として12000石の大名に加増され、高虎の養女とも結婚します。その後は茶人としてのみならず作庭家、建築家、書家としても注目され、特に古田織部が謀反の罪(大坂の陣で豊臣と通じた疑い)で殺されてからは、茶の湯の第一人者として将軍や大名たちからも認められます。建築家としても名古屋城天守閣や天皇御所の作事奉行を担当しました。ただ利休の弟子だった細川忠興からは『遠州の侘茶は平和な時代のもので、合戦の前に茶を喫して死んでいく武将を見送った師利休のものとはかなり異なる』と手厳しく批判されています。それでも秀長からの旧恩は高虎同様に忘れなかったようで、秀長側室が残した奈良の尼寺興福院が廃れていたことを知った遠州は、上方郡代(畿内総監)の職にあったこともあり、本堂・客殿・大門の再建に協力して建築家としての腕をふるっています。


 以上のような小堀遠州の文化人としての活躍を見ると、秀長が大和へ移ってから死ぬまでの5・6年は、本当の意味での桃山文化が華開きつつある時期で、もし彼と利休があのまま健在であれば、文化面のみならず政治面でも秀吉とも家康とも異なる織田信長流に近い日本国になっていたことでしょう。重商主義により南蛮文化を柔軟に吸収する、世界の中の日本を意識したアジアきっての合理的な先進国です。