三成痛恨の失策だった大津城攻め兵力分散 | 福永英樹ブログ

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 数ある豊臣政権大名の中でも屈強といわれた立花宗茂が関ヶ原本戦(慶長5年9月15日)に間に合わなかったことは、石田三成や大谷吉継が率いた西軍惨敗の一因とされています。なぜなら宗茂ら大津城攻め(城主は京極高次)の軍勢15000人が、関ヶ原当日には今の滋賀県草津市(関ヶ原まで1日で到達できる)まで迫っていたからです。また攻城軍の主力は実は宗茂ではなく、毛利輝元(西軍総大将)の叔父毛利元康(元就八男)とその弟毛利秀包(元就九男)でしたから、関ヶ原に早めに合流していれば戦況(寝返り・日和見)は大きく変わっていたはずです。


 そもそも元康・秀包・宗茂は、輝元の命令で『三成ら豊臣主力軍に合流せよ』と命令を受けていました。つまり吉川広家(輝元従兄弟)や毛利家老の福原らが黒田長政を通じて徳川家康と密かに連携していたとはいえ、輝元本人はまだ家康と決着をつけるつもりだったのです。しかし三成や吉継が西軍へ味方すると想定していた近江大津城主の高次が突如離反したため、彼らは足止めをくってしまいます。吉継や宇喜多秀家あたりは『肝心なのは家康との直接対決だから大津城は無視しよう』と主張したと私は想像していますが、プランナー気質(行政・兵站・外交の専門家)の三成は『大津は舟運を含めた交通の要衝だから、それを京極に抑えられては大坂の秀頼様との連絡が滞る危険性がある』といって15000人の兵力を大津城攻めに割いてしまったのです。また高次の籠城軍は3000人しかいませんでしたから、その気になれば2・3日で落とせたはずだったのですが、思わぬ人たちに足を引っ張られてしまいます。大津城内には高次正室の初と、高次妹の龍子がいたのですが、初が淀殿(茶々・豊臣秀頼母)の妹で龍子が豊臣秀吉の側室でしたから、淀殿と高台院(寧・秀吉正室)が『二人を決して殺してはならぬ』と元康らに手紙を送ったのです。そのため9月7日から始まった大津城攻めは予想外に手間取り、肝心の関ヶ原本戦に間に合わなかったのです。


 戦いの経験に乏しい三成が対家康に軍勢を集中せず勝機を逃してしまったのは、ある意味仕方がなかったのかもしれませんが、京極高次の気持ちを察し切れなかったのは明らかな失敗でした。そもそも石田家は北近江の守護大名京極家に代々仕えた家臣筋でしたから、もっと日頃から気を使って高次との付き合いをすべきでした。一方家康は無類のブランド(名家)好きでしたから、足利尊氏の盟友佐々木氏の流れをくむ京極氏を大いに尊重して接していたと言います。『京極家は徳川と同じ清和源氏の血筋ですから、決して悪いようにはしませんよ』と・・。また大津城に淀殿や寧と密接な人間がいることを軽視したのもうかつでした。結局石田三成という武将は、豊臣秀吉の後ろ楯ありきでしかその能力を発揮できない・・。佐和山城で謹慎中だったため時間的余裕がなかったことが人心掌握の妨げになったともいえますが、ギリギリの場面における本能的な勝負勘のようなようなものが明らかに欠落しており、おそらくそれは生存中の主君秀吉がカバーしていたのでしょう。