関ヶ原後も生きのびた石田三成の妻 | 福永英樹ブログ

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 石田三成(1560~1600)の正室うた(皎月院・?~1600)といえば、関ヶ原の戦いで敗戦した夫の後を追って近江国佐和山城で自害したことが定説になっています。しかし複数の根拠から大坂城を脱出して1615年(大坂夏の陣の年)まで生き延びたいう異説も有力で、私はこの裏には三成の意に従った長男重家(1584~1686)と次男重成(杉山源吾・1589~1641)による巧妙な隠蔽工作があったのではないかと考えています。


 細川忠興夫人ガラシャの自害で有名なように、三成や毛利輝元(西軍総大将)は関ヶ原の時点ですべての大名の妻を大坂城に人質にとっていました。ルールに厳しい三成が自分の妻だけ例外として居城に住まわせることは考えにくく、うたも大坂城にいたに違いありません。また重成と三女振姫(1592~1623)は大名嫡男津軽信建に連れられ遠く陸奥国弘前までの逃亡に成功していますから、母であるうたも脱出する時間的な余裕があったと見てよいでしょう。重家は三成と親しかった僧侶の助命嘆願により、徳川家康に許され出家(妙心寺壽聖院)しました。

 三成の研究者によれば、うたは次女小石殿の夫で大名蒲生秀行の家老だった岡重政を頼って陸奥国会津へ下ったとされ、元和元年10月14日に死去したそうです(極楽寺過去張より) ただこの岡重政は秀行の妻(家康の娘)と仲違いして1613年に切腹していますので、晩年の2年は苦難に見舞われたことが想像されます。

 しかし僧侶となっていた重家は、まるでこれを隠すかのように死んだ一族のうち母親のことだけは決して記録に残していません。またこれに呼応するように、重成は母親は三成処刑直後に自害したという伝承をわざわざ弘前藩杉山家に残しています。いわゆる口裏合わせですね。


 すべて三成が万一に備えてあらかじめ計画した正室救済策だったと私は思います。ただ自らの父石田正継と兄石田正澄や、うたの父宇多頼忠だけは、佐和山城で自分の道連れとして犠牲になってもらったというわけです。それにしても夫三成が豊臣秀吉と過ごした大坂城が焼け落ちる姿を見て、うたは何を思ったのでしょうか?