日本の近代化を阻んだ徳川家康の商業蔑視思想 | 福永英樹ブログ

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 18世紀後半から19世紀にかけて起こった産業革命や市民革命により欧米が次々と近代化する中、日本は260年に及ぶ江戸時代で大きく立ち遅れ、それが太平洋戦争敗戦の悲劇の遠因にもなってしまいました。徳川幕府が外国の文化思想の流入を阻む鎖国政策を続けたことがその要因によく上がりますが、私はそれ以上に徳川家康が武家統治の根幹思想として掲げた朱子学(儒教の流派)が悪影響を及ぼしたと考えています。


 関ヶ原の戦いの3年後に将軍になった62歳の家康は、全国を統治するにあたって明らかに豊臣秀吉と織田信長を反面教師にしています。まず秀吉が個人的な名誉欲を満たすために朝鮮半島に出兵したり、実子可愛さのあまり一旦は後継者に定めた甥を粛清したことを目の当たりにした家康は、政権運営の中核に一つの思想信条を位置付けることを考えます。つまり為政者は感情や欲得だけで政治を行うのではなく、理念により統治すべきだということですが、信長が家来を身分家柄にこだわらず登用重用(能力主義)したり、有力商人を政治に参画(重商主義)させたり、キリスト教宣教師の意見(積極的外交・貿易)を聴いたりしたことは、家康にとって嫌悪すべきものでした。なぜなら今川義元の人質として駿府城に軟禁されていた少年時代の家康が心の拠り所とした思想が、上下関係(厳格な身分制度)により平和を維持することを良しとし、商業を蔑視する儒教だったからです。中国の伝統的思想である儒教は、親を敬い年長者を大切にするところから始まりました。それが徐々に理念化され、朱子学に至っては『下が上を敬い、上が下を慈しむのは大宇宙の真理である』と説明するようになります。つまり厳格な身分制度により武家が庶民を支配することを肯定した考え方です。幼い頃からこの影響を受け、遂には学者並みの知識を身につけた家康は、すっかりこの思想で凝り固まっていたのです。従って天下を得た家康は早速朱子学者の林羅山を幕府官学のトップに据え、幕臣のみならず大名家の武家たちにもこの思想を受け入れることを促し、遂には全国の庶民へも影響を及ぼしていきます。


 当初の百年はこれがプラスに効果を及ぼします。農民が従事する農耕も、武士が行う年貢徴収(行政)もある意味定型化した作業でしたから、世襲である彼らに非常にフィットしていたからです。新田開発も進み日本の人口はどんどん増えたのです。しかし豊かになった日本で商品経済が発達し、貨幣経済が庶民に浸透すると、徐々に米の価値が低くなっていきます。こうなると米だけが収入源の武家と農民は困窮するばかりで、商業資本の台頭により幕府財政も逼迫していきます。人口もまったく増えなくなりました。焦った八代将軍徳川吉宗は米会所を開設して米相場高騰を煽りますが、家康の商業蔑視思想がありますから運営は大坂の有力商人たちに委ねることになります。結果的にこの禁じ手は有力商人たちの益々の台頭に繋がり、幕府や大名は彼らからの金融がなければ立ち行かなくなってしまいます。またこれにより財政運営や行政運営がどんどん複雑化していきましたから、年貢を徴収するだけでふんぞり返っていた世襲無能官僚では手に追えなくなります。身分家柄にこだわらない能力の高い人材の登用に迫られた吉宗は、またもや禁じ手を使ってしまいます。足高の制です。これは重要な仕事をさせたい低い身分の有能幕臣に就任中に限って高額な役職手当を支給する措置で、身分家柄に従った基本給(石高)は据え置くという吉宗苦肉の策でした。これで吉宗は身分だけは高い既得権者たちを納得させたわけですが、登用された低い身分の有能家臣は期待どおり成果を上げましたから、事実上封建制度が崩壊したことになります。吉宗は無言のうちに朱子学に基づく幕藩封建体制を否定したのです。

 そんな吉宗の努力もむなしく、彼の息子である九代将軍徳川重家以降も武家財政は逼迫するばかりでした。そこで彗星のように登場したのが、重家と十代徳川家治に仕えた老中 田沼意次でした。彼は吉宗のような中途半端なやり方ではなく、徳川幕府自体を主体的に商業に参画させようとしました。税法を改めることはもちろん、幕府に今の日本銀行のような機関を設け、財政投融資により年貢米以外の歳入を得ようとしたのです。しかし家康以来の商業蔑視思想を受け継いだ松平定信らに頑強に抵抗され、あともう少しのところで阻まれてしまいます。山本周五郎さんの小説「栄花物語」の中の定信は、意次にこう言い放っています。『金を貸したり利息の分け前を受けるということは、幕府を商人と同列に落とすことです。また商いの会所を運営するということは、東照大権現様(家康)以来の御政道の本分を破壊し、民の上に立つ武家全体を凌辱するものです』 またこんな時代に逆行するような定信の言い分に他の幕閣や御三家が賛同したのは、意次の父親が元紀伊藩の足軽という低い身分出身で、成り上がり者に対する醜い嫉妬があったからだと言います。つまりいくら意次が斬新で合理的な政策を打ち出そうとしても、それを運営すべき機関である徳川将軍家と幕府自体がまったく相反するもの(あくまでも既得権者を優遇)だったということです。まるで秀吉晩年の悪政の影に苦心した関ヶ原の石田三成のようで、意次も家康の影に潰されたのです。彼がもし有力大名の息子に生まれていたら、日本は100年早い幕末を迎えていたかもしれません。


 明治維新から150年が過ぎた日本ですが、江戸時代はそれを大きく上回る260年ですから、そこで育まれた日本人の気質がそうそう変わるものではありません。しかしながら吉宗や意次が生きた江戸時代後期はまるで社会主義と市場経済の共存の矛盾に苦悩するお隣の大国に酷似しており、破綻は自然の成り行きであり、今の我々も時代の進歩に決して目を背けることはできないのです。