豊臣秀次を養子にした阿波三好氏のその後 | 福永英樹ブログ

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 天正7年(1579年)11月織田信長の重臣羽柴秀吉は、甥の次兵衛(後の豊臣秀次)を阿波国(今の徳島県)に地盤をもつ三好康長へ養子に出します。ライバルの明智光秀が天正3年(1575年)に織田家と同盟させた土佐国(今の高知県)の長宗我部元親が、四国全土に領地を拡大したため、これに対抗するラインを構築して主君信長にアピールしたのです。これを受けた信長は三男織田信孝と重臣丹羽長秀に四国出兵を命じますが、大坂湾から渡海寸前の天正10年(1582年)6月2日に光秀が京都本能寺にいた信長を討ってしまいます。先行して阿波一宮城を攻めていた康長は、変を聞いてあわてて河内国(今の大阪府東部)へ逃げ戻ります。


 康長は四国征伐後に阿波一国の恩賞を信長から受ける予定だったそうですが、本能寺の変により長宗我部氏が危機を免れたため、秀吉から三好家を実質的に乗っ取られてしまいます。重臣たち(若江八人衆など)は秀次の家臣となって働かされ、康長自身も秀次の紀州攻めでは配下として戦っています。また秀次の実父三輪弥助も三好吉房を名乗るようになります。天正14年(1586年)に秀次が秀吉の養子になると三好氏の存在価値が完全になくなり、康長とその息子康俊は行方知れずとなり没年もわかっていません。ただ孫の三好俊長については、徳川家康から土佐国へ移封された山内一豊の家臣となったという記録があります。

 まあ三好氏は足利義昭による信長包囲網に加わって散々信長と秀吉を苦しめた一族でしたから、生き残りの康長に対する秀吉の思いは複雑だったのかもしれません。信長が文化人として優れていた康長を非常に気に入っていたため、秀吉に上手に利用されたというわけです。