大和豊臣家存続へ奔走した藤堂高虎 | 福永英樹ブログ

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 文禄4年(1595年)4月、豊臣秀長(大和・紀伊100万石)の後を継いでいた養子豊臣中納言秀保(17歳・1579~1595)が、大和十津川で不可解な死を遂げました。叔父の太閤豊臣秀吉は彼の葬儀を秘密裏に行うよう命じ、大和豊臣家の改易を命じます。(それでも兄の関白豊臣秀次と母の智が正式に葬儀を行いました) 伊勢藤堂藩の史料によれば、家臣の一人が秀保もろとも川の淵へ飛び込み、それが原因で溺死したといいます。秀長から秀保の後見役を託されていた家老藤堂高虎(1556~1630)は、すぐに秀吉がいる伏見城へ赴き、10年続いてきた大和豊臣家の存続を懇願します。


 秀保の夫人は秀長の長女三八(みや・1578?~1604)で健在でしたから、高虎は彼女を再婚させる形で新たな当主を擁立しようと考えます。ただこの時期は秀次が秀吉から粛清される3ヶ月前でしたから、秀次の三人の息子から三八の婿を迎えるわけにはいきませんでした。また彼らは結婚するにはまだ幼かったのです。こうなると残る候補は一人だけで、高虎はかつて三八と婚約していた藤堂高吉(1579~1650・仙丸・丹羽長秀の三男・秀長養子→高虎養子)を大和豊臣家の後継者に推します。秀吉や秀次の血縁ではない高吉であれば、豊臣秀頼(秀吉実子)による天下継承を揺るがす恐れが低く、秀吉が安心すると考えたからです。しかし高虎が筋を通して必死に願い出たにもかかわらず、秀吉はあっさりとこれを退けています。高虎のことですから、北政所(寧・秀吉正室)や石田三成に根回しくらいしたのでしょうが、秀吉からすれば三八も秀次の身内でライバルですから、高吉と三八の間に息子が生まれたら秀頼を脅かす存在になると思ったのでしょう。秀次を追い詰めることに必死だったこの頃の秀吉でしたから、自分への過去の秀長の貢献を認めつつも、そのような寛容さを引き出すのは無理だったのです。秀吉は大和豊臣家を改易した後も、まだ若かった三八を決して再婚させませんでした。『高虎ら大和豊臣家の重臣たちは、それぞれ独力した大名として豊臣本家に仕えるように』と秀吉は命じますが、高虎だけは落胆と失望のあまり高野山で出家してしまいます。


 つまりこの時点で高虎は変わったということで、彼ははっきりと秀吉に見切りをつけたのです。あれだけ秀長を頼りにして利用し続けたくせに、息子可愛さのあまりそれを踏みにじった秀吉を許せなくなったのです。それは切腹した秀次と関係が深かった大名たちも同じで、彼らの多くは高虎同様に関ヶ原の戦いで徳川家康に味方しています。

 その後三八は再婚することなく20代半ばで病死しますが、高虎は自らが建立した秀長の菩提寺(大徳寺大光院)に彼女の亡骸を手厚く埋葬しています。秀保の墓は、智が院主で秀次も弔われている京都善正寺にあります。