秀長不在を狙って丹羽家を解体した豊臣秀吉 | 福永英樹ブログ

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 天正13年(1585年)4月16日、かつての織田信長次席家老で、信長横死後は羽柴秀吉に味方していた丹羽長秀(1535~1585)が51歳で病死しました。15歳の嫡男 丹羽長重(1571~1637)が遺領123万石(越前・若狭・加賀ニ郡)を相続しますが、東海の徳川家康や四国の長宗我部元親に備えて戦力強化を迫られていた当時の秀吉は、若年の長重に123万石を託すことの非効率を感じます。しかしさすがに正当な理由なく丹羽家の領地を削るわけにはいかなかったため、秀吉は得意の調略により丹羽家を解体しようと謀ります。まずはかねてから秀吉の織田家乗っ取りに批判的という噂があった丹羽家重臣の成田道徳に注目します。秀吉は道徳と意見が異なる同僚重臣 長束正家、戸田勝成、溝口秀勝、村上頼勝と密かに通じ、丹羽家の内紛を煽動しようと考えたのです。


 ところが秀吉に最も近いところに丹羽家と昵懇な人物がいました。誰あろうそれは実弟の羽柴秀長で、彼は長重末弟の仙丸(後の藤堂高吉)を自らの養子(娘婿)にしていました。秀長が間に入ってしまえば丹羽家解体が困難なことは明白でしたから、秀吉はその年の6月に始まる四国征伐(長宗我部攻め)の総大将を秀長に託し、自らは病気と称しながら越中国 佐々成政(織田家唯一の敵対勢力)の討伐(同年8月)の準備を着々と進めます。そして長重にも越中征伐に合流(兵2万)するよう命じたのです。

 秀長は8月6日に長宗我部を降伏させましたが、戦後処理がありましたから大坂城に帰還したのは8月23日でした。この間秀吉は佐々討伐を完了させ、8月27日に大坂城に帰還しましたが、その時には丹羽家の処断も終わっていたのです。成田ら一部の丹羽家重臣が佐々軍に内応したという疑いをかけ、長重を若狭国15万石に大幅減封したのです。越前には秀吉側近の堀秀政が18万石で新たに入り、加賀丹羽領は前田利家に与えられました。さらに長束ら四将を自らの直臣大名にするために、彼らを丹羽家から引き離します。この際に長束はかなり抵抗したらしいのですが、最終的には秀吉に屈服しています。さらに長重は九州征伐後に4万石にまで領地を減らされますが、脅威のメンタルの強さを発揮して小田原征伐で武功をあげ、加賀松任12万石まで復活しています。


 秀長からすれば『これはおかしい。裏に何かあるな』と思ったことでしょうが、自分が不在中の出来事でしたから、さすがに兄へ意見することができませんでした。この3年後に秀長は養子仙丸の廃嫡を秀吉から命じられ、兄弟の仲がいよいよ悪くなったと言われていますが、私はこの越中征伐直後の丹羽家減封が契機だったと考えています。またこの事件の裏には、丹羽家と領地が隣接する加賀の前田利家をあくまでも優遇する秀吉と、丹羽家と古くから親しかった秀長という兄弟の付き合いの違いがあったと思います。秀長からすれば『利家は賤ヶ岳の戦いで途中まで柴田勝家に味方していたかつての敵』に過ぎず、対して丹羽長秀は『山崎の戦いと賤ヶ岳で秀吉に協力してくれた歴然たる味方』という判断があったからです。丹羽家と前田家の不仲は15年後の関ヶ原の戦いまで続いていきます。