天正9年(本能寺の前年)2月28日、織田信長は京都内裏東にて大規模な馬揃え(軍事パレード)を行い、重臣明智光秀がその運営責任者として活躍しました。これに対して羽柴秀吉は因幡国鳥取城攻めの最中で、信長側近で後に秀吉の家臣となる長谷川秀一へ無念の意を手紙で伝えています。元来このようなイベントが大好きだった秀吉は、秀一に参加できなかった悔しい気持ちを吐露すると共に、馬揃えの内容・参加者の詳細・当日の雰囲気などを詳しく教えてほしいと懇願しています。参加した主な人たちを記していきます。
【一門衆】
織田信長
織田信忠(信長長男)
織田信雄(信長次男)
織田信包(信長弟)
織田信孝(信長三男)
織田信澄(信長甥)
織田長益(信長弟)
【重臣】
柴田勝家(越前衆の柴田勝豊・柴田勝政・前田利家を率いる)
丹羽長秀(摂津衆の中川清秀・高山右近・池田輝政を率いる)
明智光秀(娘婿の細川忠興や大和衆 山城衆を率いる)
【馬廻・小姓】
それぞれ15騎
【公家衆】
関白近衛前久
正親町中納言
烏山中納言
日野中納言
※秀吉以外で参加できなかったは、武田勝頼と対峙していた滝川一益 徳川家康と、息子を参加させる代わりに居城で待機するよう命じられた池田恒興 細川藤孝だけでした。以下に秀吉の悔しい気持ちを私なりに代弁していこうと思います。
『羽柴は上様の四男である養子の秀勝殿が継ぐ家じゃぞ。信雄様や信孝様が呼ばれるなら、当然参加する権利があるはずじゃ。池田や細川のように前もって伝えていただければ、秀勝殿を京都へ寄越したものを・・。あと何ゆえ権六殿(勝家)の甥だけが特別に招待されておるのじや。あやつらが加賀国を制した褒美と聞いたが、昨年石山本願寺が降伏し、そのせいで一向宗門徒が多い加賀衆が弱体化しただけじゃろ。そして最もいまいましいのが光秀じゃ。あやつは丹波一国を屈服させるのに5年もかかり、しかも藤孝やわしの弟秀長の手も借りたではないか。その後は遠方へ転戦することもなく、朝廷に取り入り上様の側でぬくぬくと過ごしておる。このままでわしが済ますと思うなよ。必ず鼻をあかしてみせる。今に見ておれ!』
この時期は信長と光秀の結束が最高潮で、勝家も信長から高い評価を受けていました。実際にこの時期の光秀は、放浪の身から大名へ引き上げてくれた信長へ感謝の意を記録に残しています。しかしこの2年後になると、信長も光秀も勝家もこの世の人ではありませんでしたから本当に恐ろしいです。つまり秀吉はこの直後から、四国問題(長宗我部家の領地にまつわる)を利用して信長と光秀の仲を裂くことに邁進しており、1年3ヶ月後にはこれを見事に成就させたということです。おそらくそのあとに勝家と対決することも、秀吉のスケジュールに間違いなく予定されていたはずです。織田家にとって最も強敵だった毛利一族と対峙していた秀吉からすれば、信長が企画し光秀が運営した馬揃えは到底許せない行動だったのです。嫉妬が原動力とはいえ、底辺から這い上がってきた豊臣秀吉が生涯最高の凄みを示した瞬間でした。