信長と秀吉の違いがわかる竹生島事件の顛末 | 福永英樹ブログ

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 信長公記(太田牛一著)といえば織田信長の一代記で、著者が長年信長の側近だったことから信憑性の高い一次史料と評価されています。しかし著者は本能寺の変の5年後に豊臣秀吉に召し出されて家臣となっていますので、秀吉が信長公記の記述に干渉した可能性が高いともいわれています。その代表的な事例が、天正9年(1581年)春に起こった竹生島事件についての記載です。


 琵琶湖の最北部に浮かぶ竹生島は古くから神が住む島とされる信仰の対象で、琵琶湖南西の安土城にいた信長は陸路と船を使って参詣します。日帰りするには遠距離だったため、誰もが信長が重臣の秀吉がいる長浜城(湖北にある)で一泊するものとたかをくくっていました。そこで安土城の女中たちは、安土近郊にあった桑実寺へ参詣して羽を伸ばします。ところが信長は長浜城に泊まることなく日帰りで安土へ帰城してしまいます。女中たちがいないことに激怒した信長は、桑実寺の住職に彼女たちを差し出すよう命じます。女中たちを哀れに思った住職は信長に助命を乞いますが、ますます怒りを買い、女中もろとも成敗されてしまいました。


 成敗とは必ずしも死罪を意味するものではありませんので、女中や住職が殺されなかった可能性もあるわけですが、わざわざ信長の悪いイメージが伝わる事件を牛一が自主的に取り上げるはずもなく、秀吉の信長を暴君に仕立てあげようとする意図が見え隠れします。実際に天下人となった秀吉は『信長は勇将だったが良将ではなかった』と憚ることなく公言しています。しかし前年に摂津石山本願寺を屈服させ北条氏を臣従させていたこの時期の信長は、いよいよ全国統一が目前となり、いかなる政治を施し日本を統治していくかで頭がいっぱいだったのではないでしょうか。いずれにしても法やルールを遵守させることにより統治していかなければなりませんので、最も身近にいた人たちの職務怠慢と主君を騙した罪は到底許されるへきものではなかったのです。彼が足利義昭を将軍に立て初めて京都を統治した時も、治安維持のために家臣団の統率を厳しく命じており、違反した人間を自ら斬って意気込みを示しています。また彼が家臣の裏切りに対して非常に敏感だったのは、少年期から青年期にかけて織田一族内で争いが絶えず、自らも実弟に謀反された苦い経験があったからです。


 しかし『人間なんて所詮そんなもので、武威と権力のみで従わせるしかない』と信じて疑わない秀吉からすれば、信長が守りたかった倫理観や価値観などは非現実的な戯言に過ぎなかったのです。つまり周辺に伝えきれない真実より『家臣や庶民にどう見せるか?』かが重要であり、わざわざ人望を失う事件を起こした主君を内心では下に見ていたのだと私は思います。確かにそんな現実的かつ効率的な手法は、秀吉に早く天下を呼び寄せたのかもしれません。しかしいざ平和になった日本をいかに統治していくかの段になると、政治理念もビジョンもない彼は、個人的な感情(外征や実子優遇)を垂れ流して自滅の道(豊臣政権崩壊)を歩むしかありませんてした。


 確かに信長は性急で暗い一面があったとは思いますが、やったことの一つ一つには必ず意味があったと私は考えています。ただ天才肌であまりにも表現力が欠落していたため、凡人には理解しがたかったのだと思います。