三木攻城中に羽柴秀吉が打った本能寺への布石 | 福永英樹ブログ

福永英樹ブログ

歴史(戦国・江戸時代)とスポーツに関する記事を投稿しています

 豊臣秀吉が生涯で最も窮地に立たされたのは、配下だった三木城主 別所長治(播磨最大国衆)が、敵対する毛利輝元へ寝返った時(天正6年2月)だと私は考えています。姫路(播磨西部)を居城としていた当時の羽柴秀吉が、播磨東部の三木城と中国地方の毛利に挟まれる形になったからです。しかしこれにめげることなく抜群のバイタリティを発揮するのが秀吉の秀吉たる所以で、彼はこの苦難を克服するのみならず、4年後の本能寺の変(天正10年6月・織田信長と明智光秀の仲を裂く)へ向けて着々と布石を打っています。


【天正6年】

 盟主ともいうべき別所氏が2月に織田家を離反したことで、播磨の国衆たちのほとんどが毛利へ寝返ってしまいます。残ったのは秀吉と連携してきた黒田官兵衛の主君小寺氏くらいでした。これを知った毛利が播磨西端の上月城を攻めため、秀吉は援軍を要請しますが、信長から上月を見捨てて三木城攻めに専念するよう厳命されます。この結果秀吉の播磨における信用が地に落ち、7月に尼子氏が守る上月城が落ちてしまいます。さらに織田家重臣で摂津国を領していた荒木村重と小寺氏まで毛利へ寝返り、荒木の説得に赴いた官兵衛まで幽閉されてしまいます。信長は長男織田信忠を大将にして三木城を攻めますが、長期化すると読んで改めて秀吉に兵糧攻めを命じます。秀吉は毛利から三木城へ運ばれる兵糧の補給路になっていた別所方の砦を、一つ一つ粘り強く落としていくことにしました。


【天正7年】

 砦のほとんどを陥落させた6月に軍師竹中半兵衛が陣中で病死しますが、彼は秀吉に次の策を遺言します。

①播磨と毛利領の間にある備前国の大名宇喜多氏を調略し、戦況を一気に好転させること。

②丹波国を攻略しつつあり信長から称賛されていたライバル明智光秀を窮地に追い込むため、光秀が同盟させた四国土佐国の長宗我部氏と信長の関係を破綻させること。

③かつての光秀の主君で今は明智家の与力大名になっていた細川藤孝を取り込み、光秀の勢力を削ぐこと。

④弟秀長と親しかった織田家次席家老丹羽長秀と姻戚関係となり、いざという時に秀吉の味方になってもらうこと。


 7月に信長の命令で光秀の丹波黒井城攻めに合流した秀長は、陣中で藤孝と親しくなり、細川筆頭家老の松井佐渡守がかねてから光秀と不仲であることを知ります。巧みに佐渡守に近づいた秀長は、2年後の鳥取城攻めでは佐渡守に援軍を要請するほどの関係に発展させています。次に秀長は嫡男が夭逝していたこともあり、丹羽長秀の三男と自らの長女を婚約させています。10月になると秀吉が堺の豪商小西隆佐に連絡し、宇喜多氏の家臣になっていた彼の次男小西行長との交渉機会を設定してもらいます。行長の活躍で織田と宇喜多の同盟が成ると、劣勢になった荒木村重が上方から逃亡します。さらに翌11月には、長宗我部氏と敵対していた阿波国の三好康長を織田家に取り込むため、甥の羽柴秀次を三好氏の養子へ送り込みます。これを確認した信長はかねてから長宗我部氏の四国における勢力拡大が不快だったこともあり、元親に讃岐国と阿波国からの撤退を命じますが、元親は応じませんでした。


【天正8年】

 1月になると別所氏が降伏し小寺氏も滅亡します。信長は播磨一国を秀吉に与え、秀長にも彼が平定した但馬国を与えています。光秀にも正式に丹波一国が加増され、藤孝も丹後半国を与えられました。藤孝は信長の命により、息子忠興と光秀の娘を結婚させています。


【天正9年】

 信長による京都馬揃えの運営責任者へ任命された光秀の絶頂期に、秀吉は信長の許しを得て三好康長に阿波攻めをさせています。これを知った光秀は元親に自重を促しますが、長宗我部軍はなかなか戦いを止めようとしません。そうこうしているうちに鳥取城攻めで羽柴家と細川家の親睦が深まり、両家は光秀の知らないところで連携するようになっていきます。


【天正10年】

 甲斐武田氏を滅亡させた信長は、5月になると遂に長宗我部征伐を決意し、三男信孝と丹羽長秀に出兵を命じます。家老斎藤利三の妹を元親に嫁がせていた光秀は窮地に陥り、出兵の前日に京都本能寺にいた信長を討ちます。すぐに藤孝に加勢を求めますが、細川家が動かなかったばかりか、羽柴軍がまるで本能寺を予測していたのではないかと疑うほどの早さで上方に接近してきます。宇喜多軍と丹羽軍を味方にした羽柴軍は総勢4万に膨れ上がり、これと戦った明智軍1万6千はあっけなく大敗しました。


 光秀が馬揃えを成功させて喜んでいる時に、秀吉は凄まじいバイタリティと知恵を駆使し、様々な手を打って事態の打開に邁進していたというわけですね。さらに彼を助けた重臣たちも非常に有能でした。また今回は記しませんでしたが、信長側近の堀秀政・長谷川秀一・蒲生氏郷らを密かに取り込んでいたことも、本能寺~山崎~賤ヶ岳の流れをスムーズにしました。秀吉の絶頂期は天皇を聚楽第に行幸させた天正16年あたりと見ることもできますが、私は本能寺以前5年くらいが秀吉の凄みを示した絶頂期だと思っています。