池田輝政と天龍寺の争いを解決した藤堂高虎 | 福永英樹ブログ

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 慶長15年(1610年)、足利尊氏 開基の臨済宗 本山天龍寺である事件が起きます。同寺の塔頭で大名 池田輝政(播磨国姫路52万石)の祖母養徳院(織田信長の乳母)が建立した陽春院が、宝泉庵の尤首座(池田家と密接だった)に押領され、天龍寺側が寺社奉行に訴えたのです。つまり陽春院が天龍寺から独力の動きを見せたということで、内実は徳川家康の娘を妻にし、夫婦の息子たちにも別の領地が与えられていた輝政の傲慢でした。寺社奉行は公平に截断し、同じく天龍寺の塔頭だった鹿王院より陽春院に留守役を派遣するよう命令を下しました。しかし尤首座からそれを聞いた輝政が激怒し、京都所司代 板倉勝重や家康側近の高僧 以心崇伝にまで抗議の書状を送りつけます。天龍寺側も黙っておらず、『陽春院は鹿王院末派が開基である』として譲りません。遂に両派は駿府城にいた家康の元にまで赴き裁定を要求します。家康としては娘婿である輝政の要求に応えたかったわけですが、下手に強引に命令してしまえば、徳川幕府が臨済宗全体を敵にまわしてしまう恐れがあります。困った家康は藤堂高虎に泣きつきます。


 高虎は若い頃に旧主豊臣秀長が『兄豊臣秀吉と外部との揉め事を調整してきた姿』を何度も見てきましたので、事件による悪影響を最小限に留めることを優先します。鹿王院の留守役の手違いが揉め事の発端だったとし、池田サイドと天龍寺サイドを宥めたのです。つまりどちらの言い分もプライドと意地の張り合いに過ぎず、どちらが正しいともいえない取るに足りないものでしたから、この際鹿王院に涙を飲んでもらうよう高虎が頭を下げたのです。

 『何でこんなことまでわしがせにゃあならんのか・・』と高虎は思ったに違いありませんが、徳川譜代の重臣たちの中にはなかなかこの手のことが得意な人材がいなかったのてしょう。こんなに意地を張った池田輝政はこの2年後にあっさりと急病死し、妻(家康娘)と嫡男もすぐに後を追っています。