滝沢馬琴の南総里見八犬伝のモデルとされた里見氏は、清和源氏新田氏末裔の名家でした。徳川家康も同じように新田氏末裔だと名乗っていましたが、これはかなりあやしく、里見氏こそが正真正銘の新田氏末裔だったです。そんな里見氏の戦国期は安房国(今の千葉県南部)のみならず、上総国(同中央部)や下総国(同北部)の一部も領する勢力を保ち、大勢力の北条氏にも屈しませんでした。しかし豊臣秀吉 徳川家康といった中央勢力に翻弄され、里見忠義(九代目当主・1594~1622)の代に滅亡しました。
忠義の父里見義康(1573~1603)は秀吉側近増田長盛の調略を受け、早くも1588年には豊臣家への臣従を誓っていました。ところが秀吉による1590年の小田原征伐に遅参したとされ、安房国9万石のみの領有とされてしまいます。表向きの理由は遅参に加え、義康が秀吉に無断で北条氏の領地へ侵入したとされています。しかし内実は戦後家康に与える予定だった上総国と下総国を、秀吉が里見氏へ難癖をつけて搾取したと私は考えています。これを知った家康は義康を気の毒に思ったのか、同じ清和源氏新田氏の血筋ということもあり、何かと世話を焼いて里見氏との親交を深めていきます。秀吉の朝鮮出兵でも、義康は徳川軍に加わって肥前名護屋城まで赴いています。関ヶ原の戦いでも義康は家康に従って宇都宮城で上杉景勝を牽制しており、12万石へ加増されます。しかし義康が1603年に31歳の若さで死去すると、里見家に暗雲が漂い始めます。
後を継いだ里見忠義が17歳(1610年)の時に二代将軍徳川秀忠の側近大久保忠隣の孫娘と結婚したのですが、直後に忠隣が家康とその側近本多正純と不和になってしまいます。そして1614年に忠隣が改易されると、同じ年に里見家が突然伯耆国(今の鳥取県西部)3万石へ減封されてしまいます。理由は一般的に忠隣に連座したとされていますが、忠義の安房国における統治にかなり問題があったようで、悪臣を重用して譜代家臣をないがしろにしただとか、領内の乞食を集めて皆殺しにしたなど、数々の悪い噂が家康の耳に入ったからだと言われています。そうでなければあの名家好きブランド好きの家康が、簡単に里見氏を滅ぼしたりしません。その証拠に忠義の妻の兄である大久保忠職は、後に許されて大名へ復帰しています。ただ当時忠義はまだ10代後半の年齢でしたから、里見家の重臣たちが早めに家康らの立場を察し、大久保家との関係を断ち切る努力をするべきだったのかもしれません。もちろん忠義の悪政をカバーすることもてす。
伯耆へ移った忠義は大名としての扱いを受けず、一転して食べていくのが精一杯の環境へ置かれます。息子の血筋の中には旗本や大名家の家臣になった者もいましたが、遂に幕末まで里見氏が大名へ復活することはありませんでした。