国家100年の計を示した四代将軍徳川家綱 | 福永英樹ブログ

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 外様大名を改易しまくって島原の乱(1637~1638)を引き起こした三代将軍家光(1604~1651)と、生類憐れみの令(1687~1709)により庶民たちを震撼させた五代綱吉(1646~1709)に挟まれたせいか、どうも地味な印象がある四代将軍 徳川家綱(1641~1680)ですが、私はこの家綱こそが250年以上続いた幕藩封建体制の礎を築いた将軍だと考えています。


 世界でも稀な徳川将軍家による長期平和政権継続の要因は、鎖国により外交防衛上のトラブルがなかったことがよく言われますが、私は創設者徳川家康が大名たちの自治を一定程度認めた寛容さ(地方分権統治)と、立身出世より忠誠心や集団性を優先する組織重視の姿勢にあったと考えています。しかしながら二代秀忠と三代家光がまるで陥れるかのような理由で外様大名を改易し続けたため、全国に溢れた牢入たちが庶民に非道な狼藉を繰り返し、遂には大きな社会問題となります。つまり家康の初志にそむくような「平和な時代にそぐわない力のみによる統治」が半世紀くらい続いたのです。特に家光は直情型でやることにむらがあり、彼が強権をふるって断行した鎖国政策と参勤交代制度は、長い目で見ると国力を著しく落とすことに繋がっていきます。そんな家光が48歳の若さで病死したため、家綱は若干11歳で新将軍となります。ただ家綱は家光生存時から優れた資質を示しており、次のような二つのエピソードがあります。ある日彼は近臣にこう質問します。『遠島になった罪人は何を食べているのだろう?』 近臣が答えられないと、家綱は『命を助けて流罪にしたのに、食料を与えないのはおかしい』と言ったそうです。これを耳にした家光は喜び、『これを家綱の仕置きはじめとし、今後流人には食料を与えることにしろ』と重臣に命じます。また家綱が食事していた時に汁物に一本の髪の毛が混じっていたのですが、驚いた小姓が慌てて新しい物と交換しようとしたところ、『その汁は途中で捨て、椀を空にして下げるように』と命じました。椀を空にすることにより通常のおかわりのように見せ、咎められる者が出ないように配慮したのです。


 そんな思いやりのある聡明な家綱でしたから、優秀な補佐役だった保科正之の意見を尊重しながらも、父親の武威武力のみで家臣庶民を押さえつけた政治の限界を認識しており、次の3つの改革を断行します。


【末期養子の緩和】

 末期養子とは大名が嫡男のいないまま急死した時に、家の断絶を防ぐために緊急に養子縁組をすることです。しかしこの制度は危篤となった大名の意志が確認しにくいことや、家臣たちが自らに都合のよい新当主を決める危惧を理由に幕府は禁じていました。そのため先に記したように、主家改易による牢人が全国に溢れてしまったというわけです。そこで家綱が保科を担当者に任命して末期養子を大幅に緩和し、改易大名を減少させました。

【殉死の禁止】

 戦国時代は主君が合戦で戦死することが多かったため、家臣や妻があとを追って自殺することが少なくありませんでした。その慣習は平和な世になっても美徳とされ、主君が病死すると自らの忠誠心を示すため殉死する者もいました。(藤堂高虎などはすぐに禁止していますが) 幕府でも家光が死んだ際に多くの殉死者が出ています。しかし家綱はこれを人の道に外れた行為だと定義づけ、優秀な人材を失う無益なこととしました。

【大名証人の廃止】

 大名の正室や嫡男を江戸に住まわせることは、大名にとって参勤交代とセットの義務でした。しかし三代家光までは、その重臣の妻子まで人質として江戸で生活することを余儀なくされていました。大名領内で重臣による謀反が起きないようにするための策でしたが、これは大名の負担が大きい上に、幕府が藩内政治に干渉することでした。そこで家綱は重臣の妻子の江戸在住を全面的に解除したのです。

 さらに家綱17歳の時に起きた明暦の大火で江戸の6割が消失すると、被災者救済と復興事業を何よりも優先しました。そのため焼けたしまった江戸城天守閣はあえて再建しませんでした。


 以上のように家綱はそれまでの武力よる支配から、信頼と慈悲を前提とした「法による支配」で幕府大名の共存共栄を実現したわけですが、それだけでなく大名 公家 寺社の所領を統一した方法と形式で調査確定する朱印状まで発給しています。皆さんも学生時代に社会科の教科書で江戸時代の大名配置図を見たことがあると思いますが、それは当時24歳だった家綱の根こそぎからの調査と確認の末に完成されたものなのです。また同じように教科書に載っている幕府の組織図や職制も、家綱の時に確定したのです。残念ながら家綱は子供を残すことなく40歳の若さで病死しますが、地味ながら家康が構想した『理想の統治組織と政治運営』を緻密に仕上げたのは彼だったのです。ただ唯一欠落していたのが財政面の無策でした。この時代はそれまで大量に採掘されていた金や銀が枯渇し、年貢米のみが歳入となった幕府財政は停滞していたのです。しかし家綱も保科もこの点については無頓着で、後の八代吉宗や田沼意次が非常に苦心します。