信長の堺制圧以来連携していた豊臣秀長と千利休 | 福永英樹ブログ

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 天正14年(1586年)、薩摩国島津氏の侵攻に窮した豊後国の戦国大名 大友宗麟は、大坂城へ赴き豊臣秀吉へ援助を求めます。その際に豊臣秀長(1540~1591)が「公儀のことは宰相(秀長)へ、内々のことは茶頭の千利休(1522~1591)へ、安心して何でも相談してください」と宗麟へ告げたことが大友家の記録に残っており、それが秀長と利休の豊臣政権における役割の重さと、二人の親密さを証明する形となりました。ただ二人が一致団結して秀吉を支え始めたのはこれよりかなり前からで、実は織田信長が足利幕府を再生して堺の町人たちを制圧(課税)し始めた永録12年(1569年)からスタートしていたのです。(秀吉33歳・秀長30歳・利休48歳)


 この年はまだ信長と将軍足利義昭が共存しており、浅井長政や朝倉義景とも決裂(1570年)していませんでしたから、意気盛んな当時の木下藤吉郎は、弟小一郎と共に義昭に臣従していなかった但馬国の山名祐豊を攻めました。祐豊は堺へ逃亡し、かねてからの知り合いで信長の覚え目出度かった豪商 今井宗久(堺 会合衆代表者・信長茶頭)を頼って信長へ謝罪します。信長がその場で山名氏の但馬支配を認めたため、木下兄弟の頑張りは無に帰してしまったのです。また信長の命令により、但馬国の生野銀山も宗久が祐豊と協力して採掘していくことになってしまいます。そこで秀長は当時宗久、津田宗及(豪商天王寺屋当主)に次ぐ三番手の信長茶頭だった利休に接近します。利休は自らの参禅の師である京都大徳寺の高僧 古渓宗陳(1532~1597)を秀長に紹介し、三人はすぐに意気投合します。(古渓が堺南宗寺で修行中だった時代に利休と知り合う) ただ当時の利休はまだまだ宗久の力(信長からの信頼を含めて)には及びませんでしたから、羽柴家の財政を預かる秀長も、兵糧や鉄砲弾薬の調達は宗久に頼らざるを得ませんでした。元亀元年(1570年)に宗久に当てた手紙を見ると、秀長が鉄砲弾薬の手配を懇願する姿が目に浮かびます。


 そんな秀長利休コンビに転機が訪れたのが、天正5年(1578年)11月の秀長による但馬国竹田城攻略と、それによる生野銀山の再発掘でした。山名氏と宗久が手をこまねいていた銀山採掘を秀長が本格化したことにより、羽柴家の軍資金が潤ったのはもちろん、但馬の国衆を銀により手なずけ、信長から羽柴兄弟への評価も上がったのです。さらに秀長が利休に依頼して銀を出資や融資により盛んに運用したため、羽柴家の財政は織田配下のどの大名より豊かになっていきます。しかし秀長利休コンビと今井宗久の最後の戦いが、天正7年(1580年)9月に静かに起こります。信長に敵対する毛利輝元へ味方していた備前国主 宇喜多直家の調略(織田と同盟させる)を、どちらが先に成功させるかです。備前国は今井家の商圏でしたから宗久は独自ルートを駆使しますが、秀長は利休と親しかった堺の豪商 小西隆佐を利用し、当時宇喜多家に仕えていたその息子 小西行長へ交渉させます。小西ルートによる織田宇喜多の同盟は見事に成就し、織田家の毛利攻略は大きく好転しました。勢いに乗った羽柴兄弟は豊潤な財力を使って、因幡国吉川氏も米の買い占めという奇策により落としました。そして本能寺の変で信長が横死すると、利休は山崎の戦いの直前に秀吉のために茶会を催し、勝利すると秀長が古渓に信長葬儀の運営を依頼しました。


 古渓を含めた秀長利休のコンビは、秀吉の織田家における立場を急上昇させ、さらに天下取りの下準備を果たしたとも言えるでしょう。