秀吉の大徳寺破却命令に刀を抜いて抵抗した豊臣秀長盟友 | 福永英樹ブログ

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 昨日は豊臣秀吉の織田家重臣時代の躍進と、天下取りの足掛かりを支えた豊臣秀長、千利休、古渓宗陳の連携について紹介させていただきました。ただ天下人となった秀吉が朝鮮出兵を計画すると、三人は揃って猛反対しました。全国統一が果たされたあかつきには、戦国乱世で疲弊していた武家や庶民に平穏が訪れると信じていたからです。武功夜話における前野長康の証言によれば、秀長は死ぬ間際まで兄秀吉に自重を促していたといいます。また秀長の志を引き継いだ利休も秀吉に殺される寸前まで、有力大名へ外征反対の同意を取り付けようと奔走しました。しかし『利休粛清の理由は朝鮮出兵問題だった』とはしたくない秀吉は、利休が大徳寺の山門に自らの木像を置き、門をくぐる天皇や関白(自分)を足蹴にしたことを表向きの罪状としました。さらにそれに便乗した秀吉は、利休や秀長と密接だった大徳寺の高僧二人(古渓と春屋)を連座の罪で磔にし、寺を破却する命令までしたのです。


 私が想像するに秀吉が本気で二人を殺すつもりはなく、膝まずいて頭を下げてくるのを待っていたのだと思われます。利休が殺される前に一旦堺へ追放されたのも、彼が泣きながら命乞いしてくる様を世間に見せつけたかったからであり、いくら待っても謝罪がなかったため、しびれを切らした秀吉が仕方なく京都へ呼び戻して切腹させたのです。つまり秀吉は大徳寺も外征に反対していることを知っていたのです。そこで秀吉は大徳寺へ派遣する四人の使者を厳選し、古渓らが頭を下げざるを得ない状況をつくろうとします。豊臣政権の重鎮である徳川家康と前田利家、寺社朝廷関係を担当する奉行の前田玄以、利休七哲の細川忠興という面々です。つまり朝鮮出兵には大名朝廷はもちろん、お前ら以外の寺社や利休と親しかった連中も既に賛同しているから、命が惜しかったらすぐに頭を下げろということを無言のうちに表現したのです。

 

 しかし四人の来訪を受けた古渓は、懐から小刀を出してこう恫喝したそうです。『そのような理不尽な命令に応じるくらいなら、この場で自害するから覚悟せい!』 驚愕した家康らは命令の書状を古渓から引き戻し、大政所(秀吉母)と慈曇院(秀長正室)へ秀吉を説得してほしいと頼みこみます。母親と弟の妻の説得から事件を知った秀吉は顔色を変え、古渓が利休と同じ道を選ぶことを引き止めました。それでなくとも諸大名への影響力が多大だった利休を殺してしまった上に、家族や側近石田三成とも親しい大徳寺の高僧まで自害してしまえば、自らの人望が地に落ちることを恐れたのです。


 以後秀吉は秀長の法要を古渓に任せ、表面上は大徳寺と死ぬまで融和を保ちます。しかしながら弟秀長から外征を反対され、利休や古渓にも命懸けの反対をされたことは、『世の中には秀吉のように欲得や感情だけでは動かない者もいる』ことを見事に秀吉に知らしめました。つまりこの事件はあまり有名ではありませんが、当時の大名や世間にかなりの影響(秀吉批判)を与えたということです。秀吉だってあんなに自分のために尽力してくれた三人に反対されたことは、内心堪えていたに違いありませんね。