ことごとく失敗した藤堂高虎の外様大名救済 | 福永英樹ブログ

福永英樹ブログ

歴史(戦国・江戸時代)とスポーツに関する記事を投稿しています

 豊臣秀長の家老だった藤堂高虎(1556~1630)が徳川家康の天下取りに全面的に協力したのは、『長期武家政権を構築して永続的な平和を日本にもたらす』という秀長の志を引き継いだからです。しかしその真意を理解する者は少なく、高虎も石田三成と同じように昭和までは悪評が耐えませんでした。そしてそんな高虎が徳川幕府の治世だったにもかかわらず、外様大名(豊臣系大名)を必死に援助救済していたことも最近注目されています。今日はかつての彼の戦友だった蒲生氏郷、生駒一正、加藤清正の子孫へ尽くした高虎の救済について記していきます。ただ結論から申しあげますと、残念ながらそれらの救済は高虎死去直後からあっけなく崩れ去っていきます。


■蒲生家

 蒲生氏郷の嫡男秀行(1583~1612)が大坂の陣の前に若死にすると、11歳だった孫の忠郷が陸奥国会津蒲生家を相続しますが、高虎は忠郷をサポートして自らの娘 亀姫と18歳で結婚させています。ところがその忠郷が僅か26歳(1627年)で子供の無いまま病死し、蒲生家は改易の危機となります。そこで高虎は忠郷の弟忠知を大御所徳川秀忠と将軍徳川家光に推薦し、会津60万石から伊予松山24万石へ減封されながらも相続の許可を得ます。翌1628年には内藤氏の娘を忠知と結婚させ、祝言には秀忠と家光にも出席してもらいます。しかし1630年に高虎が死去すると、忠知妻の姉妹と結婚していた重臣蒲生郷喜の専横が目立つようになり、家老たちが郷喜を幕府に訴える御家騒動が起きます。1632年に家光が家老たちの言い分を良しとする採決を下しますが、忠知の精神的打撃は大きく2年後に病死して改易されてしまいます。高虎嫡男の藤堂高次も手の打ちようがなかったといいます。


■生駒家

 関ヶ原の戦いで三中老の一人生駒親正は石田三成へ味方しましたが、彼の嫡男生駒一正(1555~1610)は高虎の親しい友人だったため徳川家康へ味方しました。そのた讃岐国高松17万石の生駒家は安堵されますが、大坂の陣の前に一正が病死してしまいます。そこで高虎は一正嫡男の生駒正俊(1586~1621)を自らの養女と結婚させて相続させ、大坂の陣へも参戦させませす。しかしその正俊が36歳の若さで死んでしまい、その嫡男生駒高俊(1611~1659)が11歳で生駒家を継ぐことになります。それでも高虎は有力老中だった土井利勝の娘と高俊を結婚させ、前野長康(秀長盟友で関白秀次事件に連座切腹)の親戚である旧知の前野助左衛門を生駒家へ重臣として送り込みます。しかし家老だった生駒将監と前野の間で激しいいさかいが勃発し、高虎が仲裁に入ります。何とか収まったかに見えましたが、高虎が死んだ途端に再発し幕府を巻き込む訴訟へ及びます。高虎嫡男の高次も間に入って仲裁しますが、愚かな当主高俊は『ありがた迷惑だ』と言って拒否したため、さすがの高次も匙を投げます。そして高虎死後10年目に、遂に生駒家は改易されたのです。


■加藤家

 家康と豊臣秀頼の二条城における会見を仲介した加藤清正は、領地肥後国へ戻ると50歳で急死してしまいます。清正と親しかった高虎は、清正嫡男で11歳の加藤忠広(1601~1653)の後見役を幕府に願い出ます。ところが忠広18歳の時に重臣同士のいさかいが勃発し、高虎は幕府へ採決を仰ぎます。この時は高虎の尽力で収まったのですが、忠広が家康の孫だった正室を嫌い、側室を溺愛したことにより、忠広自身が精神的におかしくなります。正室が産んだ嫡男も遠ざけ、隣国細川家の記録によれば肥後国は荒れ放題になったといいます。そして高虎が死ぬと、将軍家光と対立していたその弟徳川忠長と忠広の親交が幕府で問題となります。遂に謀反の疑いをかけられた忠広は、改易されて1632年に出羽国へ追放されます。流罪先へ同行したのは側室のみで、正室と嫡男は上方で暮らしたそうですから、すっかり妻子から愛想をつかされていたようです。


 高虎の外様大名に対するある意味の肩入れができたのは、家康と秀忠からの個人的信頼が深かったからだと私は思います。しかし三代家光は生まれながらにしての将軍でしたから、外様大名への対処は非常にクールでした。従って善意からした高虎の救済もかえって仇となるケースがかあり、自分の知り合いを当該家中へ重臣として送り込んだり、娘を当主と結婚させて結束を高めようとしたことは、ある意味逆効果だったかもしれません。意志が強くて有能な人の唯一の弱点ですね。