福島正則弟にみる木下弥右衛門血筋の狂気 | 福永英樹ブログ

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 先週投稿した記事「豊臣秀長正室の出自を再考」の中で、大政所(仲・豊臣秀吉母・1516~1592)の姉妹とその子供たちについて少しふれました。寧(秀吉正室)、杉原家次、木下家定、青木一矩、小出吉政などがそうですが、そのほとんどが草食系武将ともいうべき穏やかで地味な人たちでした。これに対して秀吉実父の木下弥右衛門(1513~1543)の血筋ですが、秀吉(1537~1598)とその姉智(1534~1625)を除けば、弥右衛門の妹 松雲院(1538頃?~1602)が産んだ福島正則(1561~1624)とその弟 福島高晴(1573~1633)だけでした。ただこの福島兄弟がやったことを見ていくと、仲の実家 関氏の血筋と異なり、ある意味狂気ともいうべきものを感じてしまいます。そこで今日は正則の弟高晴について記していきます。


 まず秀吉ですが、彼にも潜んでいたであろう狂気の血筋は織田信長が主君だったことにより制御され、信長横死までは有能な部分だけが発揮され頂点まで上り詰めました。ところが徳川家康を臣従させたあたりから変化が見られ、『嫡男鶴松は種無しの秀吉の子供であるはずがない』という庶民による貼り紙に激怒し、厳しい犯人の探索や門番の斬首などそれまでには考えられない愚行が始まります。また小田原征伐へ向かう途中で故郷尾張国へ立ち寄った際には、関白ともあろう身でありながら、少年時代に自分を苛めたガキ大将を探しだして殺すよう命じています。この兆候が後の朝鮮出兵や関白秀次切腹事件につながっていったのです。そして秀吉の従兄弟の正則ですが、少年でありながら父親の家業だった桶屋で使うノミを使って、喧嘩した大人を刺し殺したという異常な逸話があります。また泥酔して家臣を無実の罪で斬り殺し翌朝記憶がなくて後悔したり、家康に献上した品の出来が悪かったことで職人の首を斬ったこともありました。さらに関ヶ原の戦いの直後に家康の家臣に難癖をつけ、その家臣の首を出せと要求して家康をあきれさせたこともありました。そして決定的だったのは家康の娘と結婚させた自らの養子 福島正之(姉の息子)を、実子が生まれたことにより冷酷にも餓死させたことでした。家康が遺言で二代将軍徳川秀忠へ福島家改易を命じたのも無理はなかったのです。


 そして正則の弟高晴ですが、彼は母親松雲院が35歳を過ぎて産んだ遅い息子だったこともあってか正則より我が儘だったようです。また生まれた時から秀吉が大名でしたから、正則のように桶屋の家業を手伝う苦労もありませんでした。また正則のような武功(関ヶ原本戦に参加せず)もないまま3万石の大名(大和国宇陀城主)になってしまったからか、重臣が家康に彼の専横我儘を訴える事態になってしまいます。家康は叱責こそしたものの、兄正則の関ヶ原東軍参戦の功に免じて改易だけはしなかったのですが、高晴は家康が住む駿府城へ密かに赴き、訴えた重臣を捕らえようとする騒動を起こしてしまいます。これが後の高晴改易の理由の一つになります。

 そして1614年の大坂冬の陣で、とうとう高晴はやらかしてしまいます。家康や秀忠が攻める豊臣秀頼に兵糧を送ったのです。血縁ですから秀頼に肩入れするのは良いのですが、こんな中途半端なことをして改易されるくらいなら、堂々と大坂城に籠って家康と戦うべきでした。この時も本来なら高晴は斬首されてもおかしくなかったのですが、正則に免じて伊勢国山田への流罪に留まりましす。ただ暮らしぶりは死ぬまで困窮を極めたそうです。さらに高晴には息子が二人いたのですが、流罪先の役人と喧嘩して殺してしまい切腹の命令がくだされています。それでも高晴の孫は四代将軍徳川家綱のはからいで500石の旗本になったのですが、その子孫がまた悪行を起こしてとうとう家名断絶しました。


 秀吉が関白になった頃に弥右衛門の子供を名乗る人間が大坂城を訪ね、秀吉は仲に問いただしますが、仲は不機嫌そうな表情で『知らない・・』と返事します。訪問者が弥右衛門が外で作った子供だと察した秀吉はそれを斬首したそうですが、このエピソードは仲が弥右衛門やその血筋を毛嫌いしていたことをうかがわせます。