全国統一を果たした秀吉の大名配置 ④中国・九州 | 福永英樹ブログ

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【中国】

・宮部長房 因幡国鳥取5万石

・木下重堅 因幡国若桜2万石

・亀井茲矩 因幡国鹿野1万石

・南条元続 伯耆国羽衣石6万石

・宇喜多秀家 備前国岡山57万石

・毛利輝元 安芸国広島120万石

【九州】

・宗義智  対馬国府中2万石

・小早川隆景 筑前国名島37万石

・立花宗茂 筑後国柳川9万石

・黒田長政 豊前国中津12万石

・毛利吉成 豊前国小倉6万石

・大友義統 豊後国府内37万石

・鍋島直茂 肥前国佐賀30万石

・寺沢広高 肥前国唐津6万石

・松浦鎮信 肥前国平戸6万石

・有馬晴信 肥前国日野江4万石

・五島純玄 肥前国宇久島1万石

・加藤清正 肥後国熊本20万石

・小西行長 肥後国宇土20万石

・相良頼房 肥後国人吉2万石

・高橋元種 日向国延岡5万石

・秋月種長 日向国高鍋3万石

・伊藤祐兵 日向国曽井3万石

・島津義弘 薩摩国鹿児島58万石


 完全に朝鮮出兵を見据えた配置で、まず国内随一の軍略家である黒田官兵衛(家督は長政へ)と小早川隆景を朝鮮半島に近い場所へ置いています。さらに加藤清正と小西行長が異例の大幅加増(20万石)の上で肥後に置かれたのも、二人に負担の重い半島侵攻の先陣を任せるにあたっての配慮でした。また二人に次ぐ日本軍の主力となったのが宇喜多 毛利 大友 島津の大大名で、小田原征伐で中国 九州 四国の大名たちがほとんど戦わなかったのは、秀吉が外征のために彼らを温存したかったからです。


 4回にわたって豊臣秀吉が全国統一を果たした直後の大名配置を記してきましたが、彼が朝鮮出兵に夢中な中でも、新関白秀次に任せた内政をそれなりに重視する冷静さを保っていたことがわかったかと思います。親族の秀長(→秀保) 秀勝 秀俊もいて、家康を牽制する実力を持つ蒲生氏郷や、毛利一族を束ねる小早川隆景も健在でした。このまま秀頼が誕生せず外征を早めに切り上げていれば、充分に豊臣政権の世襲は継続できたのです。この的確な構想(大名配置)は、豊臣秀長が病床から兄に多くの助言をした末の決定だと私は確信しています。