全国統一を果たした秀吉の大名配置 ②甲信濃・東海 | 福永英樹ブログ

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【甲信濃】

・豊臣秀勝 甲斐国甲府40万石

・石川数正 信濃国松本10万石

・真田昌幸 信濃国上田6万石

・仙石秀久 信濃国小諸5万石

・織田秀信 美濃国岐阜13万石

・森忠政 美濃国金山6万石

・稲葉貞通 美濃国郡上4万石


【東海】

・中村一氏 駿河国府中14万石

・山内一豊 遠江国掛川5万石

・渡瀬繁詮 遠江国横須賀3万石

・松下之綱 遠江国久野1万石

・堀尾吉晴 遠江国浜松12万石

・池田輝政 三河国吉田15万石

・田中吉政 三河国岡崎5万石

・豊臣秀次 尾張国清洲100万石


 豊臣秀頼誕生の後と違って、秀吉は実子鶴松(2歳)がいたにもかかわらず秀次に大幅な加増(43万石→100万石)をし、さらに秀次の弟秀勝や後見役の大名たちも優遇して加増しています。彼らは徳川家康を牽制するために東海道に並べられたのですが、特に中村一氏については小田原征伐の緒戦山中城攻めで抜群の武功を挙げましたので、家康がいる関東と隣接する駿河国が与えられ加増も多かったわけです。堀尾吉晴については山中城攻めで嫡男が戦死していますので、秀吉が配慮して多めの加増をしました。家康の元家老石川数正はこの際に松本へ移り、今も現存する国宝松本城の築城をスタートさせています。九州平定の失敗で追放されていた仙石秀久は、徳川家康の取り成しにより小田原征伐に参戦し大名へ復帰しています。

 まあこのような大盤振る舞いができたのは、尾張と伊勢を領していた織田信雄が小田原征伐直後に秀吉の怒りにふれて失脚(移封を断り改易追放される)したからですが、私は最初から秀吉はそのつもりで仕組んでいたと考えています。全国統一さえしてしまえば、それまで気を使ってきた旧主織田一族や旧織田系大名などは如何様にもできるからです。織田信長の弟信包などは早くから秀吉に従ってきたにもかかわらず、北条氏を庇ったという罪に問われて改易されています。秀次兄弟の加増については、『鶴松が成人するまでは秀次を中継ぎの後継者にすべき』という豊臣秀長の冷静な判断があったと私は想像しています。田中吉政と池田輝政が秀次の尾張に近い三河に封じられたのは、吉政が実質的な秀次の家老だったことと、輝政の妹が秀次の正室だったからだと思われます。また秀次と東海道の大名たちは小田原征伐の主力として戦ったため、朝鮮出兵を免除されています。ただ秀勝については翌年母親(秀吉姉)の要望で美濃岐阜へ移封されましたので、朝鮮で戦病死する不運に見舞われてしまいます。この間に織田秀信がどうなったかは不明ですが、秀勝死去に伴い岐阜城主へ復帰しています。

 そして東海道に並んだ大名たちは秀吉による秀次粛清(切腹命令)の時、渡瀬繁詮(死罪)を除いて全員が保身のために秀吉に従っています。彼らのストレス(秀吉への遺恨や不満)は、関ヶ原の戦いで家康に味方する形で晴らすことになります。