全国統一を果たした秀吉の大名配置 ①奥州・関東 | 福永英樹ブログ

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 天正18年(1590年)9月、小田原征伐から京都へ凱旋した関白豊臣秀吉は、弟豊臣秀長(病から一時持ち直していた)と会談し、次のポイントを考慮しながら大名配置(転封・加増)を決定します。


・有力外様大名(伊達政宗 徳川家康 毛利輝元 長宗我部 島津義久)の牽制

・豊臣一族の処遇(加増)

・旧羽柴家直臣大名の処遇(加増)

・織田一族の処遇(改易・減封)

・朝鮮出兵の準備


 そこで今日から数回に分けて、各地の大名配置の詳細を記していこうと思います。今日は奥州と関東です。


【奥州】

・津軽為信 陸奥国弘前5万石

・南部信直 陸奥国盛岡10万石

・蒲生氏郷 陸奥国会津92万石

・相馬義胤 陸奥国小高5万石

・岩城貞隆 陸奥国岩城平12万石

・秋田実季 出羽国秋田10万石

・戸沢政盛 出羽国角舘4万石

・小野寺義道 出羽国横手3万石

・最上義光 出羽国山形24万石

・伊達政宗 出羽国米沢72万石(翌年に陸奥国仙台58万石へ減封)


【関東】

・徳川家康 武蔵国江戸240万石

・佐竹義宣 常陸国水戸54万石

・結城秀康 下総国結城10万石

・宇都宮国綱 下野国宇都宮18万石

・大関高増 下野国黒羽1万石

・成田氏長 下野国烏山2万石

・里見義康 安房国館山4万石


 これは秀吉らしいやり方ですが、彼は奥州と関東の大名たちを臣従させるにあたり、その外交を前田利家 浅野長政のコンビと、石田三成 上杉景勝(実質は直江兼続)のコンビに競争させています。利家が南部 伊達ら奥州の大名たちと交渉したのに対し、三成は佐竹 宇都宮ら関東の大名たちと交渉しましたが、津軽為信については三成が抜け駆けをする形で南部家から独立させましたので、両者の間で長い遺恨が残りました。また伊達政宗が臣従後も一揆を煽動するなど常に反抗的でしたから、利家と長政は頭を随分と悩ませました。そして蒲生氏郷については会津から北の伊達、そして南の徳川の牽制を任されており、秀吉の彼に対する信頼の大きさがうかがわれます。また家康以外の関東大名を見ていくと、彼の次男結城秀康(かつての秀吉養子)を除くとすべて三成の息がかかった大名ですから、秀吉が家康を警戒する姿勢がうかがわれます。