秀吉は実のところ信長をどう思っていたのか!? | 福永英樹ブログ

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 当ブログも早いもので6年目を迎えましたが、戦国三英傑(織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の記事を書くため様々な情報を得ていけばいくほど、その相互関係の複雑さを深く感じるようになってきました。特に最近気になっているのが、秀吉が主君であった信長という男をいったいどう思っていたのかという重要なテーマです。伝記などで見られる一般的な二人の関係は、『身分や出自などにこだわらない信長がいち早く秀吉の才能を見出し、秀吉もその期待に応えて信長に忠義を尽くし、信長横死の際もその恩に応えて見事に仇討を遂行した』といったベスト主従のイメージでしょうか? まあこれ自体は決して間違ってはいないのですが、主君信長の方はともかく、秀吉の方は時代が進んでいくにつれて信長感が随分と変わっていったように私は考えています。以下にその変わりようを記していこうと思います。

 

■信長の凄さを知るまでの秀吉

 秀吉ファンの方ならご承知のとおり、彼は信長に臣従する前(15歳~)に大大名であった今川義元の陪臣である松下氏の元で初めての武家奉公を経験しています。当時は信長の評判が尾張国の内外を問わず悪かったこともありますが、秀吉の父や祖父が仕えていた那古野氏(今の名古屋市を統治していた足利幕府の奉公衆)織田秀信(信長実父)が無力化したという経緯もあり、少年だった秀吉織田家自体を嫌悪していた可能性も高いといえるでしょう。ただいざ今川傘下の松下氏で武家奉公を経験してみると、そこはあくまでも譜代家臣が優遇される旧態依然とした古い体質にあふれ、働き者で才気にあふれた秀吉が主君の目に留まるようになればなるほど、同僚家臣たちの激しい嫉妬による嫌がらせが延々と続いたと言います。また当時の今川氏は経済的に非常に恵まれた土地柄ということもあり、武備や戦略についてあまり熱心とはいえなかったのです。自分は命がけでこんなに頑張っているのに何一つ報われない状況が続いた当時の秀吉は、ある日自身の生まれ故郷の大名として君臨しつつあった信長の噂を耳にします。信長は身分や家柄にこだわらず、能力の高い者ややる気に溢れた者を積極的に登用して重用する。また当時新兵器であった鉄砲の利用にも大変熱心だという…。これを聴いて秀吉は一瞬で己の進むべき道にピンときたのだ思います。俺の生きる道はこれしかないと!

 

■信長のために忠義を尽くした秀吉

 秀吉信長に臣従してすぐに認められた能力は、敵方の有力武将を味方に引き込むという調略の才能でした。底辺から這い上がってきた秀吉は当然ながら使える側の立場や心理に精通していたため、調略の対象者の欲望・嫉妬心・不満・自尊心に非常に敏感ですから、彼らのこういった心理を巧みに利用して信長に味方するよう上手に仕向けたのです。信長と言う人は部下の才能を様々な角度から見抜く眼力が抜群でしたから、秀吉の才能が調略のみならず多岐にわたっていることを良く理解していました。実際に合戦などで使ってみると、させればさせるほど秀吉は武功をあげていきますから、信長も自身の判断が間違っていなかったことを充分に確信したことでしょう。秀吉の方も功を上げれば上げるほど信長が出世させてくれますから、これほど有り難い主君はいないという気持ちだったに違いありません。信長最大の危機と言われた金ヶ崎の退却戦(裏切った浅井氏と朝倉氏に挟まれる)でも秀吉は、自ら願い出て退却軍の最後尾を務めるという最高の忠義心を発揮しました。文字通り『この方のためなら命がけ』ということだったのでしょう。信長もこの頃までは、自分のために働いてくれる家臣たちを大切にしていました。

 

■為政者としての信長に疑問を持ち始めた秀吉

 足利幕府・浅井氏・朝倉氏を滅亡させた信長は、そのために大いに貢献した秀吉を12万石の大名(北近江3郡)に出世させました。秀吉も初めて12万石もの大領を運営する立場になり、それまでのただただ信長に認めてもらいたいという視点から、領地を治める為政者としての視点をもつようになります。特に秀吉という人は意外なほど人間関係には神経質でしたから、様々な情報を集めて気を配ったに違いありません。ところが信長の方は織田家臣団(政権)が拡大し重臣たちに現場をどんどん委託していくにつれて、この人間関係に鈍感(無関心)になっていきます。そしてまず秀吉が疑問に思ったのが、信長宗教勢力(本願寺等)に対する強いこだわりでした。信長が敵も味方も多くの犠牲(敵も味方も)をはらって伊勢一向一揆を壊滅させたことにより、一向宗本拠である石山本願寺が本格的に信長に敵対してきて、織田軍四面楚歌の状況に陥ってしまいます。信長と敵対していた上杉謙信・毛利輝元・武田勝頼(長篠合戦後)・波多野秀治らが、石山本願寺と盟約(信長包囲網)を結んだからです。これは毛利の中国方面総大将の座を狙っていた秀吉には大きな弊害でした。当面のターゲットである播磨国一向宗の影響力を受けやすい土地柄だったからです。信長がもし石山本願寺と一時的にでも折り合いをつけていれば、播磨国の国人への調略をきっかけに一気に毛利領へ侵攻できると秀吉は思っていたことでしょう。ただこうなった以上秀吉も、石山本願寺の影響下にある敵たちを注視していくしかありません。ところが信長上杉謙信を滅ぼすことに強いこだわりがあったようで、多忙な秀吉謙信と直接対峙していた越前国柴田勝家の援軍に加わるよう厳命します。しぶしぶ加わった秀吉でしたが、実弟・秀長による情報で畿内播磨国に不穏な動きがあることを知ったため、信長に無断で撤退し居城の長浜城に戻ってしまいます。当然信長は激怒しましたが、結果的には秀吉畿内に戻ったことにより播磨国の平穏は保たれたのです。ここで秀吉は思ったことでしょう。『上様より己の方が、情勢判断能力も人心掌握能力も上なのではないのか…』と…。

 

■信長に見切りをつけた秀吉

 順調だった秀吉播磨国の侵攻でしたが、突如最大の国人である別所長治が離反します。離反理由は信長への人間的な不信感と、石山本願寺ら反織田家勢力が依然として攻勢だったからです。これを見た毛利輝元は、秀吉に味方していた播磨国西端にあった尼子氏上月城を攻撃します。秀吉はすぐに信長に援軍を懇願しますが、信長上月城を見捨てるよう厳命します。それどころか毛利攻め総大将の座を秀吉から一時的に嫡男織田信忠に替えてしまったのです。間もなく上月城毛利軍により落城しますが、秀吉が失ったのは上月城だけでなく、播磨国をはじめとする中国地方勢力からの彼に対する信頼もでした。秀吉の落胆は相当大きかったことでしょう。秀吉も晩年は暴政が目立ちましたが、それでも味方してくれる者や無条件に従う者には地位や財産を守ってあげており、そこはブレがありませんでした。これに対して信長は気分や好み次第のところがありムラがありました。前出のように秀吉は底辺から這い上がってきた人ですから、使われる立場の人々の心情を無視した信長のやり方には、大いに批判的だったことが想像できます。『こんなことを繰り返していたら、人心はどんどん信長様から離れていってしまう』 きっとこう思ったことでしょう。毛利家の外交担当だった安国寺『信長の世は長く続きそうもないが、秀吉という男は見どころがある』と言ったのも、秀吉信長に対する不満や疑問を敏感に感じ取っていたからかもしれません。

 

 本能寺の変の3年前、秀吉信長の四男であった於次丸(11歳・後の羽柴秀勝)養子に貰い受けます。この3年前に実子石松丸を病で失っていたとはいえ、秀吉には甥の秀次(12歳)とその弟小吉(11歳)もまだいたわけですから、わざわざ血縁でもない信長の息子を跡取りに迎える必要はなかったといえます。でもこの行為の裏には、信長織田家の重臣たちを軽視しはじめたことに対する秀吉恐怖心が隠されていました。ようやく石山本願寺と和睦した信長でしたが、その担当大将だった譜代重臣・佐久間信盛を戦を長引かせた無能武将と評し追放してしまいます。これを聴いた織田家の重臣たちは驚愕したことでしょう。特に信盛と共に行動することが多かった明智光秀ににはショックだったに違いありません。それを知る秀吉は、今こそ信長光秀も仲を裂くチャンスだと思いました。この5年前光秀は、信長の命令により織田家と四国土佐国長宗我部元親と同盟を成功させていました。光秀は部下の斉藤利三長宗我部家と姻戚関係を結ばせ、この同盟を強固なものにしていきますが、その後元親四国全域を我が物にしそうな勢いを示していきます。そこで秀吉は、長宗我部家と敵対する阿波国三好氏に目をつけます。長宗我部家の拡大路線を内心苦々しく思っていた信長は、秀吉三好氏織田家の味方につけたいという献策を受け入れてしまいます。こうなると光秀は面目丸潰れです。秀吉は自分の甥の羽柴秀次三好家の養子に差し出すほどこの策略の成功に賭けていました

 

 信長という政治家は徳川家康などとは180度異なる、重商主義を基軸に海外進出(秀吉のような侵略ではない)を未来に想定していた人物です。そしてそれを実現するための通過点として全国を中央集権化する必要がありました。つまり全国の大名たちと彼らが支配する土地との深い関係を解消するということです。しかしこれは秀吉ら大名たちにとって、これまでのモチベーションを支えてきた領地拡大指向を根底から揺るがすものだったのです。この信長の方針は中世から近世、さらに近世から近代へ進んでいく歴史の道筋の方向性としては決して間違ってはいませんでした。しかしあまりにも性急過ぎたのです。やはり信長が天下統一まであと一本のところまで来れたのは、従って奮戦してくれた家臣団(秀吉をはじめとした)あってのものでしたから、彼はそのことを配慮しながら現実的に方針を具体化していくべきだったと思います。特に理念・思想信条・ビジョンといったものとは無縁のリアリストだった秀吉の目から見ると、信長の現実性のなさと表現力の無さは天下人としては不適格だと判断したのだと想像します。以上のような経緯を踏まえた秀吉は、たとえ主君信長を見切ってでも天下人になるしかないと確信したのだと私は思っています。