信長を意固地にさせた佐久間信盛の真価 | 福永英樹ブログ

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 天正8年(1580年)8月織田信長、石山本願寺攻め(4月に降伏)の総大将を任せ、織田家譜代の重臣であった佐久間信盛(1528~1582)を、職務怠慢で無能という理由により、所領すべて取り上げた上で追放しました。この事件は、明智光秀・羽柴秀吉・徳川家康といった織田家重臣たちを震撼させ、これが2年後に勃発した光秀による本能寺の変の遠因であるとまで言われてきました。


 信長信盛に出したと言われる折檻状19条を要約すると…

石山本願寺攻で5年も総大将を務めながら、何の功績もなかった。

本願寺が強敵であれば、調略をしたり信長に指示を求めれば良いものの、何も手を打たなかった。

③お前と比べて、光秀・秀吉・柴田勝家らの功績は素晴らしい。

④加増してやったのに、新たに兵を増やすこともせず吝嗇である。

⑤7年前の朝倉氏との戦の際に俺に口ごたえした。

⑥8年前に家康武田信玄に敗戦した際に、お前を援軍に差し向けたが、ほとんど戦うことなくすぐに退却した。


 この折檻状を見て皆さんどう思いましたか?

そうです。信長は相当感情的になっていますね。10年近く前のことまで持ち出して、どんなことをしてでも懲らしめてやりたいという彼の意固地さを感じずにはいられません。だいたい良く考えてください。足軽だった秀吉や流浪者であった光秀を抜擢して重用する様な能力主義の信長が、いくら譜代重臣とはいえ、信盛が本当に無能だったとしたら、一番の強敵であった石山本願寺を攻める総大将なんか任せるはずがありません信長にあえて指示を仰がなかったのも、自分の判断で落城させる自信が信盛にあったからだと思います。彼が有能で織田家中に強い影響力をもっていた部下だからこそ、信長はここまで向きになっているのです。無能なら黙って無視して放っておくでしょうね信長の性格なら(笑)。


 信盛は、信長が若い頃に弟に家督を奪われそうになった窮地の際にも、、味方になって救ってくれた数少ない忠義の重臣でした。朝倉攻めで意見したのも、忠義心あってのものだったに違いありません。また石山本願寺は大勢力の毛利氏の絶大な援助(兵糧など)を受けていましたから、たとえ総大将が光秀秀吉であっても相当苦労して時間を取られていたことでしょう。従って、最終的に降伏させた信盛は充分に責任を果たしたと見て良いでしょう。


 では、なぜ信長は彼を追放したのでしょうか? それは信盛が武将として優秀であったのみならず、方向性を誤っている信長に対して、軌道修正を促していく能力も保持していたからにほかありません

 この頃の信長は、家臣たちと共に汗を流していた時の信長ではなくなっていたのです。自身の理念による構想や理想にすっかり心を奪われ、今の自分があるのは家臣たちの努力によるもであることを忘れてしまっていたのです。つまり調子に乗り過ぎていたのでしょうね。信盛追放の前にも、信長を裏切った者は非常に多かったのです。荒木村重・松永久秀・別所長治などです。


 個人的なこだわりに執着して、組織全体や部下の感情に鈍感になっていいた信長の晩年。現実とあまりにもかけ離れてしまった信長という男の終焉は、意固地で暗いイメージだけです。彼に取って代わったのが、現実的で人々の感情に敏感であった秀吉であったのも、偶然というより必然だったのかもしれません。

 

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