特に意識しているつもりはないのだが、いつも、どうも話が重たくなるのは、やっぱりなにか意識しているということだろうか。

なので、今回は「軽め」を”意識”して。。。。

何かをきっかけにして、それまですごく長い間考えても見なかったことが突然思い浮かんでしまうことが誰にでもあると思う。

先週のある日の帰りの電車でのこと。地獄のギュウギュウ詰めの急行と、やはりギュウギュウ詰めの次の各停をパスして、その次の各停に乗った。待った甲斐があって、渋谷からすぐに座ることができた。(わたしは、帰りはほとんどこのパターンです)

iPod を聞きながら、ふと私の前に立った人の顔を見て、心の中で小さく「オオッ!」ってうなってしまった。(声にはだしていないと思うが、イヤフォンをしていたので、やや不安アリ)

映画「ゴーストバスターズ」の登場人物にクリソツなのだ。

どの登場人物かというと、ヒロインのシガニー・ウィーバーと同じアパートに住んでいて、彼女より先にコマ犬のような化け物に変身させられてしまう間抜けな感じの眼鏡の男、ちんちくりんな感じの、確か公認会計士か何かだったような。。。それで、部屋でパーティーをやっていて、奥の部屋で魔獣がいて、逃げ回って、レストランの前で追い詰められて、、、、(あの街は多分ニューヨークであのレストランはタバーン・オン・ザ・グリーンだったような。。。)

知らない人に失礼千万ではあるが、ここにこう書いても、誰とも判らないので、書きますが、眼鏡はそれなりに今風ではあるが、髪型やちょっと前方にふくらみ気味の口元の感じといい、、、、凄い! でも、あなた、せめてその髪型はお止めになった方が。。。(ごめんなさい、見知らぬ方)

ゴーストバスターズなんて見たの何年前? それからテレビで放送もされているけど、それにしてもね。こんなところで思い出さなくても良いのに、てゆか、こんなところで思い出させてくれなくても良いのに。

記憶のとびらというのか、記憶の紐というべきなのか、これがきっかけで、映画のことがあれやこれやと記憶の底から甦ってくる。

人間の脳というのは、ほとんど総てを記憶していて、ひとは単にそれをうまく引き出せないだけだって言うけど、そうなのかもしれない。

って、ちょっと思ったりもした。

このところやたらと忙しい。

こういうときは、会議がたくさん予定されていたり、来客があったりすると、どうしてもちょっと閉口してしまいがちなのだが、会議であれ、単なる会話であれ、直接人と会って話すことは、やはりとても意義がある。

昨日もスタッフと話しているうちに、それまで考えてもみなかったようなアイデアが生まれた、ということがあった。

いつだったか、特許に関する打合せがあったことを思い出した。特許の話を弁理士事務所とするとなると、下手をすると退屈で眠くなりそうな、というか、読んでいたらまず間違いなく眠くなる特許の文書を使いながら、単純な説明を聞くということになりかねない。ところがその時はそうではなく、弁理士さんも乗り気で次々と議論が議論を呼び、色々な議論がかぶせるような進行になり、それまで思いつきもしなかったようなアイデアが自然にわいてきた。

まさに、話すことの効用だろう。

人と話したり議論を交わすことで、単に文章を読んでいるよりも、明らかに脳が複雑に刺激され、複雑に反応をすることで、新たなアイデアが生まれてくる。

案件を整理しようとするときも、パソコンや紙にむかって書き込みながら整理することも、当然大切であり、特に情報を共有するという意味においては、絶対に必要な行為であるのだが、人と話すことで、人と話をしようとすることで、それまでごちょごちょしていた頭の中が整理され、すっきりする。

これは、脳が刺激を受けて、それに反応してより効率よく働くということを示しているということだろうと思うが、もう一つ大切なのは、やはり同じ時間と空間を共有しているということが大きいのではないかと思う。

フェイス・トゥ・フェイスで議論している時、恐らくその時間、その場所にいるということが、同じフィールド、あるいは非常に近いフィールドの中にお互いがいるということで、人と人との共鳴が起き易くなっているのだ。

「共鳴」という言葉をいみじくも使ったが、刺激が反応を誘発するという一連の現象は、逆に言えば、共鳴しやすい相手とそうでない相手があるということでもある。

以前のブログエントリで、内田樹さんの文章に刺激されて色々と考えてしまう、ということを書いたが、これは私を含め多くのひとが内田さんの文章に対して共鳴しやすいということだ。

会話や会議も同じで、相手や構成メンバーによっては会話がその何倍もの効果で相互に刺激を生み新たな何かを生み出す。この時は共鳴がうまく作用していて、これは非常に心地よい時間となる。

攻殻機動隊のように、遠くの仲間と直接、脳と脳で通信できてしまうような、そんな世の中になったとしても、それでも人と人が面と向かって話すことは無くならないし、その効用は益々際だってくる、はずだ。

それは、やはり、近くにいて同じフィールドで共鳴しやすいということが、単なる言葉のやり取りのコミュニケーションと異なる意義がある、ということ。

って、そう思う。

このところ、個人主義、パーソナル化のことをずっと考えている。今日の話はちょっと難しくなりそうなので、予めご勘弁を。

世の中やビジネスにおいて、個人が注目される方向に向かっていることは間違いないのだろう。

世の中にあふれている商品物資は、同じものがただ大量に安く作られていたマスマニュファクチャリングの時代と異なり、非常に多様で、かつリーズナブルな価格になっている。これは、ひとえに製造技術の進歩であり、流通システムの進歩によるところが大きい。消費者は物質的には我が儘になることを許される環境にある。

情報やデジタル技術でもたらされるコンテンツも、消費者、あるいは生活者はインターネットという画期的な流通メカニズムによって、非常に簡便に、多種多様、大量に入手することができ、我が儘になることができる。

それなのに、現代日本社会は大衆化が進み、多くの人は「他の人」と同じであることに最高の満足を感じている、という指摘がある。我が儘になれる環境にあるはずの日本人が、大衆化しているというのか。

今、私が一番はまっている、あの内田樹先生も日本社会の大衆化に警鐘を鳴らしている一人だ。

内田先生の本を読み始めて2冊目になるが、その『地に働けば蔵が建つ』(文春文庫)に多くのページを割いて、80年ほど前のスペインの哲学者オルテガ・イ・ガセーの『大衆の反逆』を論じながら、現代日本社会の大衆化を論説している。

オルテガは「大衆」をこう定義する。
「大衆とは、自分が『みんなと同じ』だと感じることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そのような人々全部である」

まわりの人々との相互参照・相互模倣を通じて、自分の立ち位置を決め、つねにマジョリティと行動を共にすることを生存戦略として採用する人間は「おのれの単独性を引き受ける気がない」。・・・・・しかるに、そのような社会は必然的に無数の小集団に分裂してしまう。 ・・・・・こういうタイプの人間は「マジョリティ」に付き従っているつもりで、実はきわめてローカルな「声のでかいやつ」に付き従っているだけ、ということがあってもそのことに気がつかない。

大衆社会とは、自己満足、自己肯定の結果、個人がばらばらに原子化し、社会が統合を失って分裂した状態である。この分解傾向をオルテガは端的に「野蛮」と呼んだ。

と、厳しい知見が続く。

部分的に引用しても、判らないと思うので、これ以上は本を読んでいただきたいが、内田先生の一連の文章の最後の部分だけ、引用させてもらいたい。

私たちが熟慮すべきなのは、「こうすれば万事オッケーです」という広告代理店=シンクタンク的な断定と隔たることもっとも遠い、次のようなことばである。
「じっさいの生は、一瞬ごとにためらい、同じ場所で足踏みし、いくつもの可能性のなかのどれに決定すべきか迷っている。この形而上的ためらいが、生と関係のあるすべてのものに、不安と戦慄という、まぎれもない特徴を与えるのである。」


豊かになった物質文明が個人の選択肢をかつて無いほどに拡げてくれている。それと同時に、現代日本社会では益々大衆化が加速し、階層化・分極化が進んでいるという。

私がこの大衆化論を目にしてずっと気になっていたのは、パーソナル化の流れは良いことで、その方向で事業やサービスも創って行こうと考えていたのに、パーソナル化が日本社会の大衆化を後押しする結果になってしまうのではないか、という懸念であった。

つまり、簡単に色々なモノや情報が手に入ってしまうことで、安易に誰かのマネをしたり、そう言ったモノを組み合わせて安っぽい個性を持つことで、実は誰かと同じであるという安堵感を感じる大衆をつくることに荷担しているのではないのかということだ。

効率を求めて行くのがビジネスだとすれば、ビジネスが大衆を相手にすることは自然であり、否定されるべきものでもないだろう。物質的な豊かさを人間が求め続ける以上、この流れが止まることはなく、私たちはそこでビジネスをしてゆく。

大衆化の流れで気になるのは、全体の調和が見失われ、小さな集まりに分断され、他を否定、排除してまう矮小化された我が儘であり、本来の意味を失った利己的な考えが横行することだ。

おそらく、この大衆化に物質のパーソナル化も何らかの寄与があることは否定できないだろう。しかし、だからといってそれが原因である訳でもなく、これを排除したところで問題の解決にはならない。

おそらく、この大衆化を阻止する手だては、人々の価値観や行動のモチベーションといった非常に人間のファンダメンタルなところに向かって問いかけ、教育していくこと、しかも学校という限られた場所ではなく、社会システム全体で導き、教えてゆくしかないのではないだろうか。

漠然とであるが、そう思っている。