ついに先週はブログの更新ができずに終わってしまった。

このブログを始めてから、一応の目標としていた毎週更新をなんとかキープしてきていたのだが、体調を崩し気味だったことと週末も色々と仕事に追われてしまった、というのが言い訳である。

前にも書いたが、性格上、どうしても軽いネタでのエントリというのが苦手である。(これは典型的な年寄りのブログ傾向ではなかろうか)私にとって、携帯で簡単にブログをアップ!なんてことは、考えられないし、私にとっては意味のない行為と言っても良い。

文章を書くということは決して嫌いではなく、むしろ好きなのだと最近は感じている。文章を書くことで頭の整理にもなるし、あらたな刺激にもなり、脳の活性化を助けている。仕事目的の文書でない文章を書くことが目的であって、その行為のアウトプットであり、モチベーションとしてこのブログがある。だから、写真を貼り付けた日記でもないし、ましてや単語候補から選んで文を構成する携帯で文章を作成したのでは意味が無いのである。

そんな私の書くエントリは、少なからずウザったく、重たいのだろうが、そんなことは知ったことではない。嫌ならば読まずにおけばよいのがルールなのだ。

こんな私がエントリを書くときには、少なからずエネルギーが必要になってしまう。体調が悪かったりすると、やはりきつい。書き始めてしまえば、逆に元気になったりもするのだが、書き始める気になれなかったのです。

ということで、先週はパスしてしまった、という長い言い訳でした。


また、復帰です。
内田樹先生の「街場の教育論」を読んでいる。

まだ、半ばあたりまでしか読んでいないが、大学の教養教育課程と専門教育課程についての話が興味深い。

結論から先に書いてしまうと、この一文に集約される:

将来いろいろな専門領域に散らばっていく人たちが、大学一年、二年のときには共通の科目で机を並べることで、分野を超えて共有できる知的な共通基盤を作り出す。その「プラットフォーム」の上でなら、どんな分野の人ともとりあえず話が通じる。学生たちにそんな「コミュニケーション・プラットフォーム」を共有してもらうというのが教養教育の眼目です。

日本の大学のほとんどは90年代に教養教育を「無駄なこと」として廃止してしまい、その結果、大学生の学力の低下を招いてしまった。

教養教育というのは、「自分が何をやっているのかわからない」という覚知に基づいて知性を使うやり方のことです。いささかわかりにくい表現を使えば「自分がどうふるまったらよいのかわからないときに、なお適切にふるまうやり方」を身につける訓練のことです。

内田先生は教養教育の基本的な学術として、孔子の「六芸(りくげい)」を理にかなっているとしてあげている。

六芸とは、礼・楽・射・御・書・教だそうで、儒教思想が基になっているので、当然「礼」が第一に来るのだそうだ。

これは祖霊を祀る儀礼のことです。どうやって正しく死者を弔うか。これが人間が第一に学ぶべきことである。私はこの考え方は深いと思います。(中略)生きているもののふるまい次第で死者のふりまが変わるといのは、要するに死者とのコミュニケーションが成立しているということです。「存在しないもの」とも人間はコミュニケーションできる。これを人間が学ぶべきことの筆頭に置いたというのは、人間についての洞察として深いと私は思います。

ちょうどこの辺りを読んでいたのが先週のことで、このくだりを読んで、当然のようにアカデミー賞受賞作品のことを連想していた。映画「おくりびと」が教養教育のことを何ら言っている作品でないことは、観ていない私も想像はできる。ちょっとした偶然のいたずらに、少し「セレンディピティ」的なものを感じたりもした。

といっても、今のところ特にどうということでもない。

ただ、とても気になる一文を引用しておこう。

「自分にできないこと」をきちんと理解して、「自分にできること」とリンケージできること。それを先ほど私は「コミュニケーション・プラットフォーム」の構築と申し上げました。日本の教育プログラムにいちばん欠けているは、この「他者とのコラボレーション」する能力の滋養だと思います。今の日本の教育の問題というのはもしかすると、ぜんぶがこの一つの点に集約されるのかもしれません。

「コラボレーション」するための「コミュニケーション」。「自分にできないこと」と「自分にできること」をリンケージすること。

そう、私たちはもしかすると、私たちの「教養」を今、仕事でも問われている。もちろん、それは学校だけで養われるものではない。

村上春樹さんが素晴らしいスピーチをされた。

今、このタイミングで、あのイスラエルで、「エルサレム賞」という文学賞を受賞したその授賞式に出席し、英語でかなり長い受賞スピーチを堂々とされたようだ。「堂々と」と書いたが、スピーチの様子はごく一部をニュースの映像で見ただけなので、正確ではないかもしれないが、その全文をサイト で読む限り、日本人でここまでの英語のスピーチをされるのは、実に素晴らしいことだと思う。

このサイトのことを教えてくれた知人は、非常に鋭い知見の持ち主で、いつも私は敬愛して止まないのだが、この村上スピーチをオバマ氏の就任演説にも劣らないと絶賛している。ついでに、村上氏のあの会話力で、スピーチをやりきってしまうところも大絶賛であった。非常に同感である。

スピーチの内容はオバマ氏のそれとは異なり、非常にシンプルで、それでいて非常に奥深い。最近の私のお気に入りである内田樹先生も彼のブログで「卵と壁」と題して最近2回のエントリがある。その2回目のエントリ で村上スピーチの中心メッセージを翻訳しながら彼なりの解釈を加えている。

村上氏は「卵と壁」のメタファで、「卵」は、壊れやすく、一つ一つが置き換えの聞かない命、魂を持った我々人間であり、「壁」は単純に言えば戦車やミサイルのような絶対的な力であり、より深い意味では大きくて冷たい「システム」だと言っている。

内田先生は、村上氏が彼の父親のエピソードをあえて加えていることを理由に、この「システム」が表しているものは、国家権力や暴力装置やあるいは資本主義といった実体のことだけではなく、「記号」と言い換えても良いと主張されている。

この内田先生の理解のことを私ごときがとやかく言うことも無いし、村上春樹の奥深くにそのような考えがあるかもしれないことは、否定しないが、今回のスピーチでは、ちょっと深読み過ぎるし、この深読み自体、イスラエルにわざわざ出向いて行っているスピーチに対してはあまりふさわしくない気さえする。

ここで言う「システム」とは、人がつくりだした「仕組み」を差している。

村上氏が言っているように、その仕組みは人を守るために作られた。例えば国という仕組みがそうだ。ユダヤ人の国を作りたいと考えてイスラエルが作られた。ところが、イスラエルという国がある種の意志を持ち始め、存在すること自体が目的化してしまうと、その存在を危うくするものを排除し始める。イスラエルの人々の多くが望んでいなくても、イスラエルという仕組みとその仕組みの中枢にいる一部の人たちが、人を殺し、人をして人を殺させてしまう。

人が作った仕組みや組織にはそういう特性がある。

村上氏は父親のエピソードで、戦争というシステムが引き起こす最悪の事象が、そこに居合わせた個々の人間に「死」の陰を負わせ、その陰は父親の死の後も村上氏自身にまで少なからず受け継がれていることを言っているのだと、私は凡人らしく解釈するのである。

人が人の為につくったシステムが、人を殺したり、苦しめたりする。それを止めるのは、やはり人でしかなく、システムという巨大な壁に真っ向から向かって行くのではなく、人や魂のことをしっかりと意識して行くことでしかできないのだ、と言っているのだ。

そこに小説家が「ウソ」を書く意味があり、村上春樹が常に「卵」の立場に立つ理由がある。