内田樹先生の「街場の教育論」を読んでいる。

まだ、半ばあたりまでしか読んでいないが、大学の教養教育課程と専門教育課程についての話が興味深い。

結論から先に書いてしまうと、この一文に集約される:

将来いろいろな専門領域に散らばっていく人たちが、大学一年、二年のときには共通の科目で机を並べることで、分野を超えて共有できる知的な共通基盤を作り出す。その「プラットフォーム」の上でなら、どんな分野の人ともとりあえず話が通じる。学生たちにそんな「コミュニケーション・プラットフォーム」を共有してもらうというのが教養教育の眼目です。

日本の大学のほとんどは90年代に教養教育を「無駄なこと」として廃止してしまい、その結果、大学生の学力の低下を招いてしまった。

教養教育というのは、「自分が何をやっているのかわからない」という覚知に基づいて知性を使うやり方のことです。いささかわかりにくい表現を使えば「自分がどうふるまったらよいのかわからないときに、なお適切にふるまうやり方」を身につける訓練のことです。

内田先生は教養教育の基本的な学術として、孔子の「六芸(りくげい)」を理にかなっているとしてあげている。

六芸とは、礼・楽・射・御・書・教だそうで、儒教思想が基になっているので、当然「礼」が第一に来るのだそうだ。

これは祖霊を祀る儀礼のことです。どうやって正しく死者を弔うか。これが人間が第一に学ぶべきことである。私はこの考え方は深いと思います。(中略)生きているもののふるまい次第で死者のふりまが変わるといのは、要するに死者とのコミュニケーションが成立しているということです。「存在しないもの」とも人間はコミュニケーションできる。これを人間が学ぶべきことの筆頭に置いたというのは、人間についての洞察として深いと私は思います。

ちょうどこの辺りを読んでいたのが先週のことで、このくだりを読んで、当然のようにアカデミー賞受賞作品のことを連想していた。映画「おくりびと」が教養教育のことを何ら言っている作品でないことは、観ていない私も想像はできる。ちょっとした偶然のいたずらに、少し「セレンディピティ」的なものを感じたりもした。

といっても、今のところ特にどうということでもない。

ただ、とても気になる一文を引用しておこう。

「自分にできないこと」をきちんと理解して、「自分にできること」とリンケージできること。それを先ほど私は「コミュニケーション・プラットフォーム」の構築と申し上げました。日本の教育プログラムにいちばん欠けているは、この「他者とのコラボレーション」する能力の滋養だと思います。今の日本の教育の問題というのはもしかすると、ぜんぶがこの一つの点に集約されるのかもしれません。

「コラボレーション」するための「コミュニケーション」。「自分にできないこと」と「自分にできること」をリンケージすること。

そう、私たちはもしかすると、私たちの「教養」を今、仕事でも問われている。もちろん、それは学校だけで養われるものではない。