このところ、個人主義、パーソナル化のことをずっと考えている。今日の話はちょっと難しくなりそうなので、予めご勘弁を。
世の中やビジネスにおいて、個人が注目される方向に向かっていることは間違いないのだろう。
世の中にあふれている商品物資は、同じものがただ大量に安く作られていたマスマニュファクチャリングの時代と異なり、非常に多様で、かつリーズナブルな価格になっている。これは、ひとえに製造技術の進歩であり、流通システムの進歩によるところが大きい。消費者は物質的には我が儘になることを許される環境にある。
情報やデジタル技術でもたらされるコンテンツも、消費者、あるいは生活者はインターネットという画期的な流通メカニズムによって、非常に簡便に、多種多様、大量に入手することができ、我が儘になることができる。
それなのに、現代日本社会は大衆化が進み、多くの人は「他の人」と同じであることに最高の満足を感じている、という指摘がある。我が儘になれる環境にあるはずの日本人が、大衆化しているというのか。
今、私が一番はまっている、あの内田樹先生も日本社会の大衆化に警鐘を鳴らしている一人だ。
内田先生の本を読み始めて2冊目になるが、その『地に働けば蔵が建つ』(文春文庫)に多くのページを割いて、80年ほど前のスペインの哲学者オルテガ・イ・ガセーの『大衆の反逆』を論じながら、現代日本社会の大衆化を論説している。
オルテガは「大衆」をこう定義する。
「大衆とは、自分が『みんなと同じ』だと感じることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そのような人々全部である」
まわりの人々との相互参照・相互模倣を通じて、自分の立ち位置を決め、つねにマジョリティと行動を共にすることを生存戦略として採用する人間は「おのれの単独性を引き受ける気がない」。・・・・・しかるに、そのような社会は必然的に無数の小集団に分裂してしまう。 ・・・・・こういうタイプの人間は「マジョリティ」に付き従っているつもりで、実はきわめてローカルな「声のでかいやつ」に付き従っているだけ、ということがあってもそのことに気がつかない。
大衆社会とは、自己満足、自己肯定の結果、個人がばらばらに原子化し、社会が統合を失って分裂した状態である。この分解傾向をオルテガは端的に「野蛮」と呼んだ。
と、厳しい知見が続く。
部分的に引用しても、判らないと思うので、これ以上は本を読んでいただきたいが、内田先生の一連の文章の最後の部分だけ、引用させてもらいたい。
私たちが熟慮すべきなのは、「こうすれば万事オッケーです」という広告代理店=シンクタンク的な断定と隔たることもっとも遠い、次のようなことばである。
「じっさいの生は、一瞬ごとにためらい、同じ場所で足踏みし、いくつもの可能性のなかのどれに決定すべきか迷っている。この形而上的ためらいが、生と関係のあるすべてのものに、不安と戦慄という、まぎれもない特徴を与えるのである。」
豊かになった物質文明が個人の選択肢をかつて無いほどに拡げてくれている。それと同時に、現代日本社会では益々大衆化が加速し、階層化・分極化が進んでいるという。
私がこの大衆化論を目にしてずっと気になっていたのは、パーソナル化の流れは良いことで、その方向で事業やサービスも創って行こうと考えていたのに、パーソナル化が日本社会の大衆化を後押しする結果になってしまうのではないか、という懸念であった。
つまり、簡単に色々なモノや情報が手に入ってしまうことで、安易に誰かのマネをしたり、そう言ったモノを組み合わせて安っぽい個性を持つことで、実は誰かと同じであるという安堵感を感じる大衆をつくることに荷担しているのではないのかということだ。
効率を求めて行くのがビジネスだとすれば、ビジネスが大衆を相手にすることは自然であり、否定されるべきものでもないだろう。物質的な豊かさを人間が求め続ける以上、この流れが止まることはなく、私たちはそこでビジネスをしてゆく。
大衆化の流れで気になるのは、全体の調和が見失われ、小さな集まりに分断され、他を否定、排除してまう矮小化された我が儘であり、本来の意味を失った利己的な考えが横行することだ。
おそらく、この大衆化に物質のパーソナル化も何らかの寄与があることは否定できないだろう。しかし、だからといってそれが原因である訳でもなく、これを排除したところで問題の解決にはならない。
おそらく、この大衆化を阻止する手だては、人々の価値観や行動のモチベーションといった非常に人間のファンダメンタルなところに向かって問いかけ、教育していくこと、しかも学校という限られた場所ではなく、社会システム全体で導き、教えてゆくしかないのではないだろうか。
漠然とであるが、そう思っている。
世の中やビジネスにおいて、個人が注目される方向に向かっていることは間違いないのだろう。
世の中にあふれている商品物資は、同じものがただ大量に安く作られていたマスマニュファクチャリングの時代と異なり、非常に多様で、かつリーズナブルな価格になっている。これは、ひとえに製造技術の進歩であり、流通システムの進歩によるところが大きい。消費者は物質的には我が儘になることを許される環境にある。
情報やデジタル技術でもたらされるコンテンツも、消費者、あるいは生活者はインターネットという画期的な流通メカニズムによって、非常に簡便に、多種多様、大量に入手することができ、我が儘になることができる。
それなのに、現代日本社会は大衆化が進み、多くの人は「他の人」と同じであることに最高の満足を感じている、という指摘がある。我が儘になれる環境にあるはずの日本人が、大衆化しているというのか。
今、私が一番はまっている、あの内田樹先生も日本社会の大衆化に警鐘を鳴らしている一人だ。
内田先生の本を読み始めて2冊目になるが、その『地に働けば蔵が建つ』(文春文庫)に多くのページを割いて、80年ほど前のスペインの哲学者オルテガ・イ・ガセーの『大衆の反逆』を論じながら、現代日本社会の大衆化を論説している。
オルテガは「大衆」をこう定義する。
「大衆とは、自分が『みんなと同じ』だと感じることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そのような人々全部である」
まわりの人々との相互参照・相互模倣を通じて、自分の立ち位置を決め、つねにマジョリティと行動を共にすることを生存戦略として採用する人間は「おのれの単独性を引き受ける気がない」。・・・・・しかるに、そのような社会は必然的に無数の小集団に分裂してしまう。 ・・・・・こういうタイプの人間は「マジョリティ」に付き従っているつもりで、実はきわめてローカルな「声のでかいやつ」に付き従っているだけ、ということがあってもそのことに気がつかない。
大衆社会とは、自己満足、自己肯定の結果、個人がばらばらに原子化し、社会が統合を失って分裂した状態である。この分解傾向をオルテガは端的に「野蛮」と呼んだ。
と、厳しい知見が続く。
部分的に引用しても、判らないと思うので、これ以上は本を読んでいただきたいが、内田先生の一連の文章の最後の部分だけ、引用させてもらいたい。
私たちが熟慮すべきなのは、「こうすれば万事オッケーです」という広告代理店=シンクタンク的な断定と隔たることもっとも遠い、次のようなことばである。
「じっさいの生は、一瞬ごとにためらい、同じ場所で足踏みし、いくつもの可能性のなかのどれに決定すべきか迷っている。この形而上的ためらいが、生と関係のあるすべてのものに、不安と戦慄という、まぎれもない特徴を与えるのである。」
豊かになった物質文明が個人の選択肢をかつて無いほどに拡げてくれている。それと同時に、現代日本社会では益々大衆化が加速し、階層化・分極化が進んでいるという。
私がこの大衆化論を目にしてずっと気になっていたのは、パーソナル化の流れは良いことで、その方向で事業やサービスも創って行こうと考えていたのに、パーソナル化が日本社会の大衆化を後押しする結果になってしまうのではないか、という懸念であった。
つまり、簡単に色々なモノや情報が手に入ってしまうことで、安易に誰かのマネをしたり、そう言ったモノを組み合わせて安っぽい個性を持つことで、実は誰かと同じであるという安堵感を感じる大衆をつくることに荷担しているのではないのかということだ。
効率を求めて行くのがビジネスだとすれば、ビジネスが大衆を相手にすることは自然であり、否定されるべきものでもないだろう。物質的な豊かさを人間が求め続ける以上、この流れが止まることはなく、私たちはそこでビジネスをしてゆく。
大衆化の流れで気になるのは、全体の調和が見失われ、小さな集まりに分断され、他を否定、排除してまう矮小化された我が儘であり、本来の意味を失った利己的な考えが横行することだ。
おそらく、この大衆化に物質のパーソナル化も何らかの寄与があることは否定できないだろう。しかし、だからといってそれが原因である訳でもなく、これを排除したところで問題の解決にはならない。
おそらく、この大衆化を阻止する手だては、人々の価値観や行動のモチベーションといった非常に人間のファンダメンタルなところに向かって問いかけ、教育していくこと、しかも学校という限られた場所ではなく、社会システム全体で導き、教えてゆくしかないのではないだろうか。
漠然とであるが、そう思っている。