人柱 おかね と おきく 埋められし

長浜城

浅井長政攻めの功で信長から浅井氏の旧領を拝領した際に当時今浜と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名した

豊公園のベンチで昼食

琵琶湖周航の歌3番の歌詞に詠まれた長浜

波のまにまに漂う鴨

太閤井

水位がかなり下がっている

湖畔の春は 猫柳 ととのはず・・・五十嵐播水

天守閣跡に立つ豊臣秀吉公像

長浜城天守閣跡

築城工事の際、長浜一の美女と評判だった女性「おかね」が人柱に選ばれて埋められ、天守北側にあった堀が「おかね堀」と呼ばれるようになった。天守閣跡にはこの話を伝える石碑が建てられている

秀吉から築城の命令を受けた京極氏の武士が人柱を探していたところ、漁師に出会ったので、人柱の事を伏せて「この辺りに娘はいないか」と尋ねた。漁師は「自分に娘が2人いる」と答えたところ、一人を人柱として差し出すように頼まれた。悩んだ漁師は2人の娘の内、盲目の妹「しのぶ」を人柱にするよう申し出たが、これを知った姉の「おきく」が妹を庇って自ら志願して人柱となった。天守閣跡側には「おきく」を祀ったといわれる祠がある

上・天守閣から伊吹山、下・豊公園

清州越え 名古屋城で 再利用

慶長15年(1610年)徳川家康は、清須城廃城と名古屋城築城を命じ、町の建物、町の機能全てが移転する「清須越」が行われました

これにより尾張の政治・経済・司法の中心は清須から名古屋へ移り、清須城とともにその城下町は歴史から姿を消し去りました

なお、名古屋城築城に際し取壊した清須城の資材が再利用され、特に名古屋城御深井丸(おふけまる)の西北櫓は、「清須(洲)櫓」とも呼ばれ清須城天守の古材でつくられたといわれます 

平成元年(1989年)、四百年近くの年月を経て歴史ある城が「清洲城」として天主閣をはじめ、芸能文化館、清洲城広場などをしたがえ地域のシンボル、平成のお城として甦りました

4階 天下一吉例ゾーン
・・・清須の天主で浩然の気を養う
 最上階の4階では、「吉例の地・清須の天主に立ち、浩然の気を養う」をコンセプトに、先人たちが夢をかなえていった清須の眺望を楽しんでいただきます

3階 覇者たちのルーツ・清須ゾーン
・・・清須が育んだ先人達の偉業にふれる
 信長公の偉業を中心に、秀吉・家康をはじめ信長公麾下の武将たちと清須との深い関わりあいを紹介し、「覇者たちのルーツ・清須」が歴史に果たした役割、功績を検証します

2階 戦国の都・清須ゾーン
・・・関東の巨鎮・清須の全貌を体感する
 清須城を中心に「関東の巨鎮」と言われた清須城下の都市機能の全貌を知る「清須城と城下町」がテーマの展示です。戦国時代の清須城下の喧騒や信長公麾下の武将たちの暮らしなど清須の全貌を体感していただきます

1階 プロローグゾーン
・・・清須の成り立ちと歩みを知る
 朝日遺跡に代表される古代から中世、尾張国の首府であった時代を経て、「清須越」から平成17年の清須市誕生、平成21年の春日町合併にいたる清須の歴史をダイジェストでご覧いただきます

1610年頃の清洲越しの直前に存在していた本丸南側の石垣が基になっています。この石垣は1996年に行われた遺跡調査で発見され、その後復元されました

戦国時代の技法「野面積み」で積まれた重厚な構造が特徴です

別の場所で発掘された清洲城の石垣を移築復原したものです

信長&濃姫

兄弟の 遺徳を残す 長浜市

豊国神社

豊臣秀吉(豊国大明神)を祀る

秀吉の生涯に縁のある各地に存在する

加藤清正像

稲荷大明神

天正元年(1573)から天正4年(1576)にかけて城主であり、城下に作られた長浜町に善政を施していた

また、秀吉は大阪や京都に本拠地を移してからも長浜町民との交流を絶えることなく続けていたという

天正19年(1591)には「三百石の地租税免除」の朱印状が町に出され、幕末まで大きな恩典になっている

秀吉が死去すると、長浜町民は秀吉の3回忌に当たる慶長5年(1600)にその遺徳を偲んで社を建立した

それが当社の始まり

創建の地は現在地のすぐ東側で、現在はヶ浜八幡宮の御旅所がある場所であ

出世稲荷神社天井図絵

花鳥図絵

江戸時代に入り豊臣氏が大坂の陣で滅びると、江戸幕府の命により秀吉を祀ることは禁じられた

こうして当社は社殿が取り壊され、町民によって御祭神の豊国大明神が町年寄の家へ移された

それ以来、町役人十人衆によって御神像は各家庭に隠して密に祀られることとなった