兄弟の 遺徳を残す 長浜市

豊国神社

豊臣秀吉(豊国大明神)を祀る

秀吉の生涯に縁のある各地に存在する

加藤清正像

稲荷大明神

天正元年(1573)から天正4年(1576)にかけて城主であり、城下に作られた長浜町に善政を施していた

また、秀吉は大阪や京都に本拠地を移してからも長浜町民との交流を絶えることなく続けていたという

天正19年(1591)には「三百石の地租税免除」の朱印状が町に出され、幕末まで大きな恩典になっている

秀吉が死去すると、長浜町民は秀吉の3回忌に当たる慶長5年(1600)にその遺徳を偲んで社を建立した

それが当社の始まり

創建の地は現在地のすぐ東側で、現在はヶ浜八幡宮の御旅所がある場所であ

出世稲荷神社天井図絵

花鳥図絵

江戸時代に入り豊臣氏が大坂の陣で滅びると、江戸幕府の命により秀吉を祀ることは禁じられた

こうして当社は社殿が取り壊され、町民によって御祭神の豊国大明神が町年寄の家へ移された

それ以来、町役人十人衆によって御神像は各家庭に隠して密に祀られることとなった

覚悟決め 敦盛舞って 出陣す 

信長出陣の舞

人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度(ひとたび)生を得て滅せぬ者のあるべきか

室町時代応永12年(1405年)、尾張国の守護職であった斯波義重が、守護所であった下津城(稲沢市)の別郭として建てられたのが清須城の始まりといわれています 

文明8年(1476年)戦乱により下津城が焼失した後の、文明10年(1478年)守護所が清須に移転することで、清須が尾張国の中心地となります

京や鎌倉に連絡する往還と伊勢街道が合流する交通の要衝でもあり、尾張の政治・経済・司法の中心地として繁栄を迎えます

弘治元年(1555年)に織田信長公が那古野城(なごやじょう)から入城、尾張を統一掌握したころの清須城の基本構造は、守護の館と同じだったと考えられています

金の鯱

永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いに勝利した信長公は、ここ清須から天下統一への第一歩を踏み出しました 

遥か前方に伊吹山

天下統一へ突き進む途上、本能寺の変で斃(たお)れた信長公の跡目を決める清須会議の後、城主となった次男、信雄によって改修された清須城の城郭は、天守を備え東西1.6km、南北2.8kmにも及ぶ巨大な郭域の中に城下町のあらゆる機能を備えた城塞都市として過去最大の規模に達します

その後城主は、織田家から豊臣秀次(関白)、福島正則(秀吉子飼の大名)と移り、天下分け目の関ヶ原の戦いでは、東軍の最前線の城として重要な軍事拠点となります

関ヶ原以後、城の主は松平忠吉(家康四男)、徳川義直(家康九男)と変遷しますが、この頃の清須城下は、人口6万人を数える賑わいを見せ、朝鮮通信使の記録にも「関東の巨鎮」と称され、また、清須城は「天下の名城」と讃えられました

半兵衛の 子重門詠みし 自筆の歌碑

延壽地蔵尊

文化3年(1806)、戸数1284戸、人口4833人

大手町商店街

近江牛饅頭630円

大手町商店街西口

長浜大手町商店街は観光客と地元が融合した成功事例だと思います

北国街道木之本方向

北国街道彦根方向

大手門跡

家臣団屋敷跡

長浜地名起源碑

君が代も わが世も共に 長濱の 真砂のか須の つき屋らぬまで・・・竹中重門

山内一豊が新婚時代にこの辺りに妻の千代と居を構えていた