冒険心 初めての山に そそられる

階段というより土砂流出防止堰の様な役目かな

南方向は保城方面へのルートの様です

南端のピークには岩の壁

矢穴痕のある巨石

上ろうと思ったが止めた(>_<)

増位山古墳?

大地の恵み

傘

姫路市街、家島

大歳神社方面へ下りる道の様です

険路です

見晴らしの良い展望所

桶居山、高御座山

小野アルプス方向

反射板?

順慶 大和守護に 苦労する

秀吉が光秀の遺産を継承(丹波や近江坂本を領有、筒井・細川氏を服属)

天正11年(1583)郡山城の天主が完成、越智氏を平定

桜御門石垣

天正12年(1584)羽柴秀長らと伊勢・尾張へ出陣、死去(36歳)

中世VS近世

大和と紀伊、信長一族、尾張衆)が支配できなかった地域を任される秀長

信長がなしえなかった大和・紀伊を秀吉が秀長に統治を任せた

近鉄電車

羽柴御三家 秀吉・秀長・秀次

大和郡山城ホール

信長は子供重視 信忠・信雄・信孝

原田(塙)直政、南山城・大和、松永久光と組んだのが間違い

月輪

京都・・・公家、大和・・・社寺、鎌倉・・・武士 統治の役割があった

軍配を挙げる秀長

久秀が評判悪いのは、久光の後始末

大和武士たちは同じ興福寺の仲間であって順慶の家臣ではない

日輪

町衆の評判・・・秀吉は天皇に、秀長は関白に

桜井高校書道部作

奈良盆地 環濠集落 百以上

古い道標

下の字が読めない(>_<)

かつて奈良盆地には100以上の環濠集落があったといわれていますが、中世以来の環濠がここまできれいに残っているのはこの稗田環濠だけだと思います

集落を囲繞する水堀をよく残しており、典型例ともされています

 城郭としても利用されており、古市氏と筒井氏の争奪戦の現場となったり、松永氏の郡山城攻めの付城としても利用されたとされています

概ね260m四方に濠が巡らされた築造当時の姿を、ほぼ完全な形でとどめる代表例として全国的によく知られていて、歴史の教科書にも載ってたりします

戦国時代の争乱の中、農民たちが自衛のために造った環濠は、城砦的な機能はもちろん、環濠が有する貯水能力から、農業水利や治水上も重要な役割を担っていました

集落内に巡らされた道路は、いたる所に見通しがきかない曲がり角や三叉路を配置し、道路の端は行き止まりの袋小路にするなど、防衛を考慮した構造となっています

近年の発掘調査で藤原京から南北の伸びる三つの官道のうち、『下つ道』が見瀬丸山古墳から平城京の大極殿、羅城門に続いていることが確認されている

古代の直線道路で、壬申の乱(672年)頃には日本書紀の記事にその名が見えます。特にこの稗田あたりでは素掘りの側溝が検出されその規模が特に大きいことが確認されています

古事記の編纂者の一人である稗田阿礼はこの稗田エリア出身であると言われています

自衛のために濠と土塁を設けられていたが、江戸時代以降は、環濠は主に灌漑用の水路・貯水池として使われていた

しかし近年になり河川改修で水量が減って水質が悪くなり、多くが埋められてしまった

集落の南東あたり売太神社前に駐車場があります