能登半島 さいはての町 狼煙町

「珠洲ふるさと讃歌7番」

宝立山ブナ林

山伏山は珠洲岬

自然と暮らし響き合う

奥能登国際芸術祭

道の駅「狼煙」

令和6年(2024)1月に発生した能登半島地震の際は、施設の被害は軽微だったものの、狼煙地区が一時孤立したことや断水が長く続いたこと、従業員の退職が相次いだことなどから一時休業を余儀なくされた

同年4月から一部営業を再開したが、9月の能登半島豪雨の影響で再び休業

2025年4月に経営陣が交代し、5月23日から6月1日のプレオープンを経て、7月4日に再オープンした

狼煙地区には食品や雑貨を扱う店がなく、住民は移動販売車に頼っていたことから、再オープン後の当駅では日用品の取扱いも開始した

地元で採れた新鮮な食材の直売や、珠洲特産の「大浜大豆」と珠洲天然にがりを使用した地豆腐を製造し販売してます

また、実際に豆腐作りの体験や、農作業体験、漁師体験など多くの体験型学習教室を行っています

豆腐作り体験は事前に予約が必要です

50分移動して、正院にある「幸ずし」で能登海鮮丼で昼食会

山盛りの海鮮にお味噌汁、大満足でした

床の間の掛け軸

地元の人から聞いた評判通りでした

今回の支援団の会計・幹事を担当された幸師

三成公 敗戦の将 供養塔

八幡神社西側に石田三成一族の供養塔があります

古い墓石が囲いの中に収められている

供養石田三成家臣の文字が見える

残紅葉 散り残る紅葉は ことにいとおしき 秋の名残は こればかりとぞ

残照の 空にあずけし 柿一つ

昭和16年に隣接の八幡神社の地中より故意に破壊された多数の五輪塔の残欠が発掘されました

その一部に「永禄五年六月」「天正十四年正月十四日」「妙性霊位」或は「缶禅定門」等の文字が刻まれ、これら墓石の残欠は石田三成公の先祖に深い関係あるものと推定され、おそらく関ヶ原合戦直後の里人が徳川方の追及を逃れる為に、神社を隠れ蓑に密かに埋め隠したものと思われます

さらに「これに触れると腹が痛くなる」と云い伝えられて堅く発掘を戒めてきましたが、顕彰会
の手で発掘され、その後もこれらの墓石を仮の墓所で三十余年間供養して参りましたが、

昭和48年11月地元はもとより全国六百数十人の石田三成公に理解ある方々の浄財を以って墓所を整備改めて墓石を安置し新たに石田三成公及び一族家臣の供養塔を建立して公の霊を慰め一層事蹟の顕彰をすることになりました

毎年11月6日を公の命日として墓前に於て慰霊法要が厳修されます

三成直筆の辞世の句

筑摩江(つくまえ)や 芦間(あしま)に燈(とも)す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり      

筑摩江(琵琶湖東北端)にいる私

芦の間に燃えているかがり火(焚き火)が

やがて消えていくように、我が命も直に燃え尽きてしまうのだな

斎王代 十二単衣 身に纏い

下鴨神社は社伝によると初代・神武天皇の御代に比叡山西麓の御蔭山(みかげやま)に賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が降臨したのが起源と言われています

社頭の儀は葵祭で行われる最も重要な行事です。社頭の儀では勅使が祭文(さいもん)・宣命(せんみょう)を奏上し、幣物(へいもつ)を奉納します時代行列は下鴨神社での神事終了後、下鴨神社から西側の下鴨本通を北上します
下鴨本通は下鴨神社の西側を南北に走り、賀茂川(鴨川)に架かる葵橋を介して河原町通と繋がっています

時代行列は下鴨本通北大路交差点(洛北高校前)から北大路通を西側に進みます

北大路通は東端の白川通と西端の西大路通を東西に走っています。北大路通は1925年(昭和元年)に市街地の外郭線として整備されました

斎王代列

命婦(みょうぶ):小桂(こうちき)を着用する高級女官で花傘をさしかけています

斎王代(さいおうだい):かつて未婚の内親王が務めていましたが、現在は京都在住の未婚女性から選ばれています。豪華な十二単衣の重さは30キロもあります。乗っている腰輿(およよ)は四方が開放され御簾(みす)が取り付けてあるので、四方輿ともいいます

女嬬(にょじゅ):食事をつかさどる女官です

蔵人所陪従(くろうどどころべいじゅう):斎院の物品、会計をつかさどる蔵人所の雅楽を演奏する文官です、それぞれ楽器を持っています

駒女(むなのりおんな):斎王付きの清浄な巫女(みかんこ)で、騎馬で参向するのでその名があります