はせを葉や 風にやられても 名は幾世
はせを葉:芭蕉のこと
増位山東尾根ハイキングコース
見所が多い増位山
山全体が公園です
整備された階段は雨による凹凸で側道を歩く人がほとんど
俳諧史跡めぐり
風羅堂継承者の井上家(寒瓜・寒鴻・寒鳥・寒桐)の墓
酒井忠恭公の句碑
酒井忠恭:老中首座。上野前橋藩第9代藩主。のち播磨姫路藩初代藩主
聖徳大師像
地蔵菩薩像
???
不思議な空間
はせを葉や 風にやられても 名は幾世
はせを葉:芭蕉のこと
増位山東尾根ハイキングコース
見所が多い増位山
山全体が公園です
整備された階段は雨による凹凸で側道を歩く人がほとんど
俳諧史跡めぐり
風羅堂継承者の井上家(寒瓜・寒鴻・寒鳥・寒桐)の墓
酒井忠恭公の句碑
酒井忠恭:老中首座。上野前橋藩第9代藩主。のち播磨姫路藩初代藩主
聖徳大師像
地蔵菩薩像
???
不思議な空間
目まぐるしく 動く情勢 大和国
天正8年(1580)明智光秀・滝川一益が城割と検地指示
鰻堀池
筒井城も破却、信長より朱印状(郡山入城、大和を「存知」箸尾氏を与力に)
順慶は光秀の与力として、大和一国を預けられる存在に
天正10年(1582)光秀の娘婿である織田信澄が大和を望むが信長は却下
逸話「洞ケ峠」:順慶は日和見したのか?
6月2日本能寺の変
天守台
6月9日郡山城に塩と米が搬入、秀吉が毛利氏と和睦、順慶が秀吉に味方と噂
内堀北側
6月10日光秀家臣の藤田伝五の説得を拒否
6月11日秀吉に味方する旨の誓紙を提出、郡山で「国中与力相寄血判起請在之」
追手東隅櫓
大和衆をまとめあげ秀吉方へ
織田信孝・秀吉・丹羽長秀・池田恒興は光秀打倒に軍勢を集中
内堀石垣
6月13日信孝や秀吉・長秀より出陣の指示、光秀が敗死
追手東隅櫓
自衛策 稗田環濠 集落
中世環濠の姿をほぼ完全な形で残している全国的にも貴重な集落が、稗田環濠集落
古くは縄文の昔から戦国時代にかけて、日本全国に見られた集落なのですが、近代になると交通の不便さなどから多くが埋め立てられてしまい姿を消しました
集落を囲む水堀がはっきりわかります
北東、鬼門の方角の堀が屈曲していて「七曲り」と呼ばれる形です
稗田環濠の成立年は不明ですが、最も古い文献上の記載は「経覚私要抄」の1444(文安元)年2月の記事に古市胤仙が稗田に陣を敷いたと記載があり、室町中期までにはこの地に集落があり、城砦としての機能を持っていたことが伺えます
賣太神社の西側にも、近代までは枝堀があり、神社の境内がかつて主郭の役割を担っていたと推定され、集落全体が城跡ともいえます
中世の大和は大乗院と一乗院の衆徒同士の争いが鎌倉時代から南北朝、戦国期まで延々と続いた戦乱の時代で、奈良盆地には外敵から村落を守るため多くの環濠集落が生まれ、稗田環濠集落もそれらの一つでした
戦乱が鎮まると、各地の濠は防衛施設としての役目を終え、用水路として使われたり、埋められたりしましたが、稗田環濠はほぼ完全な形で現在まで残されました
現在稗田環濠は、治水対策で濠の大部分がコンクリートで整備されています
濠は農業用水としても使われたでしょう
今は他集落と道路で繋がっています
生活用水としても
稗田環濠集落整備完成予想図(かなり昔のものです)