禄剛埼 菊の御紋が 誇らしい

「珠洲ふるさと讃歌2番」

朝日夕陽の禄剛埼

パワースポット ジオパーク

日本の灯台50選

菊の御紋が 誇らしい

禄剛埼灯台

歴史的・文化的価値の高さから、Aランクの保存灯台に指定されている

この灯台では、レンズを固定し灯火の遮蔽板(しゃへいばん)を回転させることによって点滅させている

海面にあった千畳敷

日本で唯一、菊の紋章が入ったプレートがあるが、これは灯台に建設を記念して下賜されたものである

明治16年(1883)7月10日 設置、初点灯

当初から白色塔形(円形)石造だが、石材は穴水町から船で運び、崖下から索道を架けて、人力で引き上げるという難工事で、完成までに2年を費やした

山耀会としては2016年8月1日に続き2度目の踏破

三成公 敗軍の将 露と消え

光叡山「徳明寺」

立派なお寺です

寺宝として三成公縁者の書簡(軸装)、古田織部の書簡(軸装)があるようです

古田織部が三成公に贈った井戸茶碗もあるとか

古田織部:武士として美濃国の守護大名土岐氏に仕えていましたが、永禄9年(1567年)頃から織田家に仕えるようになり、織田信長の家臣として使番を務めました

朝鮮出兵が行われる少し前の天正10年(1582年)から豊臣秀吉に仕えていた茶人・千利休の書簡に古田織部の名前が登場し始めます

大谷吉継:敦賀5万石の領主

吉継は挙兵を「無謀」と三成を責め、三成の嫡子である石田重家を伴い、家康と景勝を和解させるため、病身をおして会津に行くつもりだと述べたものの、熟慮したうえで同意したとされる

関ケ原では吉継は病の影響で陣中から動かず輿に乗って軍の指揮を執ったとされる

辞世の句、契りとも 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも

吉継は自害する際、小早川秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に必ずや祟りをなさん(三年の間に必ずや祟ってやる)」と言って切腹したが、この祟りによって、秀秋は関ヶ原の戦いの2年後に狂乱して死亡に至ったという噂がある

真田信繁の正室・竹林院は吉継の娘とされているが、妹や姪とする説もある

石田正継:学問の志が深く、才文武を兼ね、学は和漢を通じ、『万葉集』をひもとき、和歌を詠ずる風流心があったという才人で、醒ヶ井の松尾寺から60巻の書籍を借り読破し、三成にも読ませようとしたという

関ヶ原では西軍に与し、佐和山城の本丸を2,800人で守備した。関ヶ原で西軍が敗れると東軍の1万5,000人が城に押し寄せたが、小早川秀秋らの猛攻に半日抵抗して家臣の多くを脱出させた後、18日に正澄と共に自刃して果てた

勅使列 上賀茂神社 到着
内蔵寮史生(くらりょうのししょう):内蔵寮の役人で、御幣物を管理している

勅使を中心にした本列と、斎王代を中心にした斎王代列(女人列)に大別できる

葵祭ルートの出発地が京都御所(京都御苑)

 

時代行列は京都御所の南端・建礼門(けんれいもん)前から京都御苑の南端・堺町御門(さかいまちごもん)まで建礼門前大通を南下します京都御所は794年(延暦13年)の平安京遷都の際、内裏に代わる臨時の里内裏・土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)があった場所です風流傘:牡丹や杜若など季節の花(造花)を飾り付けた大傘建礼門は京都御所の南面正門で、最も格式の高い門とされています随身(ずいしん)

京都御苑は江戸時代に宮家・公家など200もの邸宅が立ち並んでいた場所で

堺町御門は京都御苑九門のひとつで、堺町門番所は正門の門番所に位置付けられています時代行列は京都御苑の堺町御門から河原町丸太町交差点まで丸太町通(まるたまちどおり)を東側に進みます
丸太町通は京都御苑の南側を東端の鹿ヶ谷通(ししがたにどおり)と西端の嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)大門町を東西に走っています

丸太町通の名称はかつて西堀川に材木商が多かったことに由来しています