姫路野田 鋳物師の町 栄えたり

僧位地蔵

姫路藩代々の御用鋳物師・芥田五郎衛門により建立

野里は数多くの鋳物師があり、芥田家が彼らを統括していた

随願寺念仏堂

随願寺念仏堂は常行三昧堂として建てられたものと思われる

1085年(応徳2年)白河天皇の中宮賢子の菩提のため常行堂を二階五間の堂に改め造くられたと増井山集記に記載されている

現在の建物は棟札により江戸時代の1809年(文化6年)大工棟梁池内忠兵衛により完成したものである

本尊は弥陀三尊

周りには姫路藩士の墓や榊原藩士の墓がある

太子谷には風羅堂跡があり、芭蕉につながる誹諧の地である

保存樹「ヤマモモ」

巨樹

姫路城主酒井忠恭の千山を思い『はせを葉や風にやれても名は幾世』と詠じた歌碑もある

城郭のような石垣

久秀は 平蜘蛛火薬で 粉砕す

天正3年(1575)尾張州の原田直政が大和守護に任命、松永久通を重用

天正4年(1576)塙直政が討ち死に、順慶が国主へ、興福寺は大歓迎、一方で軍事指揮権のみ

天守台

天正5年(1577)松永久通の謀叛、松永方から没収した領地の宛行は信長

松陰堀

「屋代弘賢氏所蔵文書」信長は岡氏に「松永右衛門佐」の信貴籠城を言語道断

逸話「平蜘蛛」:信長に献上したら助命?

「松屋名物記」多羅尾光信が破片を継いだ、「天王寺屋会記」多羅尾綱知が茶会で使用

「山上宗二記」信貴山城で失われた、当世では不要

「川角太閤記」切腹後に首と平蜘蛛を火薬で砕く、「茶窓開話」平蜘蛛を割って自害

平蜘蛛を望んでいた話はあるが助命の話はない、城も火薬で吹っ飛ばない

公園として整備

内(中)堀

鰻堀池

稗田阿礼 目にしたものを 言葉にす

賣太神社境内に立つ稗田阿礼記念碑

稗田阿礼:生年654年ー没年不詳、飛鳥時代から奈良時代にかけての舎人(官人)

『古事記』の編纂者の1人として知られる

実在については諸説あり、暗誦する役割をもつ人たちの集団とする説もある

また、性別についても議論がある

『古事記』の序文によれば、天武天皇に舎人として仕えており、28歳のとき、記憶力の良さを見込まれて『帝紀』『旧辞』等の誦習を命ぜられたと記されている

元明天皇の代、詔により太安万侶が阿礼の誦するところを筆録し、『古事記』を編んだ

時有舎人。姓稗田、名阿禮、年是廿八。爲人聰明、度目誦口、拂耳勒心。即、勅語阿禮、令誦習帝皇日繼及先代舊辭。(『古事記』序)

そのとき、一人の舎人がいた。姓は稗田、名は阿礼。年は28歳

聡明な人で、目にしたものは即座に言葉にすることができ、耳にしたものは心に留めて忘れることはなかった

すぐさま(天武)天皇は阿礼に「『帝皇日継』(ていおうのひつぎ。帝紀と『先代旧辞』(せんだいのくじ。旧辞)を誦習せよ」と命じた

通常舎人は男性だが、江戸時代に女性説が提起された

平田篤胤は『古史徴開題記』の中で「阿礼は実に天宇受売命之裔にて、女舎人なると所思たり。」と述べている