レヴィナスはその主著たる『全体性と無限』で,
次のように書いている
L'effort de ce livre tend à apercevoir dans le discours,
une relation non allergique avec l'altérité,
à apercevoir le Désir
この本の努力は話すことのなかに,
他性とのアレルギー的ではない関係を見つけること,
「渇望」を見つけることに向けられている
レヴィナスの倫理学は,
自己×他者の関係性についての哲学であると同時に,
自己×自己の関係性についての哲学でもある
(文字通り「同時に」である)
アレルギーという生体反応の機構は,
レヴィナスの倫理学とある種の相同性を有しており,
興味深い論点を提示しているように思える
レヴィナスの著作といえば,
研究者でさえnotoriously difficult text (C.Davis)と表現するほどの
難解さをもって知られているが,
その難解さは書こうとする内容自体の抽象性に由来するものであろう
文体はその内容と完全に切り離すことはできないのだ
しかしながら,彼がところどころで用いている比喩は,
彼の文学への造詣の深さを示すとともに,
その悪名高い難解さに彩りを添えている
1930年代以降のヨーロッパの思想には,
反-ヘーゲル主義の一面がある
それは「同一性」「全体性」への反発である
ヘーゲル的「認識」とは主観と対象の一致のことであり,
それを反-ヘーゲル主義的に表現すれば,
認識するとは自分とは異なるものを自分の精神に包摂することで
それらを支配し,従属させることである
そうしたヘーゲル主義にとって,
自分とは異なるもの(他者)は認識における誤謬の原因,
自分を脅かす危険なもので,
排除もしくは馴致すべき対象ということになる
生体反応で言い換えるなら,
そうした異物は身体の不調の原因であり,
それをすぐに無害化しなければならないというわけだ
そしてこの無害化のプロセスを司るのが免疫機構である
レヴィナスはこの免疫機構の他者への過剰反応を,
「他者とのアレルギー的な関係」と呼び,
同時に他者との関係を閉ざされた自己への幽閉状態を
存在することへの固執,「無神論」,
あるいはスピノザ的に「コナトゥス」と表現した
この状態は身体的比喩を借りれば,
自己への幽閉状態が自己に対する攻撃性として現れるとき,
それは自己免疫疾患に喩えることができる
また逆に自己への耽溺として現れるとき,
それはがんに喩えることができるだろう
レヴィナスが,
他者への過剰反応=アレルギー,
自己への幽閉状態(自己免疫疾患,がん)に対して
処方箋として提示したのが,
理解=自己による支配を超えたものとして,
「顔」として現象する他者を歓待することであり,
他者を導入することにより,
自己の幽閉状態に対して突破口を開くことであった
いわば免疫療法である
レヴィナスの存在論は,
他者の「接近」,他者からの「任命」を前提としており,
そしてそこから主体の法外な(半ば神経症的な)責任が生じる
レヴィナスにおいて,
そうした意味で倫理学は存在論に先立つ第一哲学であったのだ
ジャック・デリダは認識という行為そのもののうちに,
すでに同一性には還元できないズレが内在していることを指摘し,
そしてジル・ドゥルーズは同一性の哲学に対する差異の哲学の優位を,
他者「になる」ことを積極的に主張した
(ドゥルーズは幾何学的アプローチを選んだのだ)
フランスというのは面白い国である。
常に世界の芸術の中心であり続け,
数えきれないほどの芸術家を世に送り出しながら,
文学,美術,音楽というそれぞれの分野において,
国を代表するような「偉大な」芸術家というのが,
なかなか思い当たらない。
イギリスにはシェイクスピアが,
ドイツにはゲーテやベートーヴェンやワーグナーが,
イタリアにはミケランジェロ,ダ=ヴィンチ,ヴェルディがいる。
ある意味ではそれは1人にしぼりきれないほどに,
非常に多くの芸術家を送り出している豊穣さの証しともいえよう。
もしフランスにユゴー,ドラクロワ,ドビュッシーしかいなかったなら,
彼らがフランスを代表する人物として
揺るがぬ地位を築いていたのかもしれない。
しかし前述の他国の芸術家と比べると,
同じように「偉大」と呼ぶことが少々憚られるように感じるのだ。
ピアニストとて例外ではない。
マルグリット・ロンに始まり,
コルトー,フランソワ,そしてグリモーに至るまで,
フランスの「優れた」ピアニストを挙げればそれこそきりがない。
特に大戦後の約10年間に生まれた世代は黄金世代とも言えそうである。
ポミエ,ルヴィエ,コラール,ケフェレック,ベロフ,ロジェ,
カツァリス,エマール,ルイサダ,ミュラロ,ティボーデ…
それでもこの中で
ルービンシュタイン,ホロヴィッツ,リヒテル,ミケランジェリ,
最近ではグールド,ブレンデル,アシュケナージ,
アルゲリッチ,ポリーニ,
といった巨人たちに匹敵するピアニストがいると言えるだろうか。
コルトーは確かに偉大であるが,
とても「ピアニスト」の枠に収まるような音楽家ではない。
それではフランスのピアニストは質的に劣っているのだろうか。
決してそんなことはない。
技術的な安定感にこそ欠けるものの,
コルトーやフランソワのような演奏ができる者は他にいないし,
彼ら以降の世代は音楽的にも技術的にも,
いずれ劣らぬ「優れた」ピアニストばかりだ。
しかしそれでも彼らには「偉大な」という形容詞がどうも似合わない。
そう,彼らには前述の「偉大な」ピアニストたちのように,
押し付けがましいまでの強烈な個性がないのだ。
ではフランスのピアニストたちがもつ個性とは一体なんなのか。
それを知るべく手にしたのがこの本,
Charles Timbrellの"French Pianism"である。
このTimbrellという人,よく知らないが,
ピアニスト兼音楽学者らしい。
とにかく博識で知識欲に富んだ方で,
よくまあこんな古い録音を探し出して聴いたものだ,
と感心してしまう。
以降,自論を織り交ぜて,要旨をまとめておこうと思う。
フランスのピアニズムを形容するのに,
jeu perlé(真珠のような演奏)ということばが用いられる。
これはもともとはショパンやリスト,シューマンと
同時代のタールベルクというピアニストについて用いられた表現だが,
玉を転がるように高速で均質なタッチ,
繊細で透明感のある音色,
抑制された感情表現といった,
フレンチ・ピアニズムの特性をよく言い表したものとされる。
このjeu perléの音楽的=技術的源流は,
クラヴサン音楽にまで遡ることができる。
ピアノを基本的に打楽器ではなく,
弦楽器としてとらえるような発想はここからきている。
撥弦楽器では音の強さよりも俊敏さが求められるため,
キーを押した後,すぐに次の音が出せるように,
指は常に鍵盤と密着した形で置かれることになるのだ。
そうした伝統から生まれる鍵盤楽器演奏の理想型は,
必然的に音の強弱を駆使した重厚で豪快な演奏よりも,
タッチの均質性,美しさを追求した軽妙で繊細な演奏を
志向するようになるのだ。
ここにリストを源流とするようなダイナミックな演奏,
ロシアのピアニズムがまさに体現している演奏との違いがある。
技術的な面からすると,
フレンチ・ピアニズムが腕や肩の力を使わず,
ただ指の運動だけで演奏を行うことを理想とするのに対して,
ロシアのピアニズムはピアノの持つ打楽器的特性を最大限に引き出すべく
腕を高く上げ,腕全体の重力によるダイナミックな演奏を理想とする。
両者の美質を兼備したホロヴィッツのピアニズムの完成度は
その点で群を抜いているといえよう。
ペダリングにおいても,
フランスのピアニズムは明晰な響きを保つために
ペダルの使用を最小限に抑える。
これはプーランク,フェヴリエから
ポミエ,ルイサダにまで共通した特徴であるが,
グールド,特にミケランジェリはペダルの使用法に徹底的にこだわった。
一方,ロシアのピアニズムはペダルの使用により
豊かな響きを生み出そうとする。
特にリヒテルがそうであるが,
プレトニョフのペダリングはとりわけ興味深い。
果たしてこの2つのピアニズムを聴き比べたとき,
どちらが「偉大な」ピアニズムと言えるだろうか。
答えは後者だろう。
誇張を恐れずに言ってしまえば,
フレンチ・ピアニズムは
初めから「偉大さ」などを目指してはいないのだ。
ちょうど後にドビュッシーやフォーレがワーグナーに心酔しながらも,
その過剰なまでの表現性と爛熟した美的感覚に辟易して,
独自の音楽の確立を目指したのと同じである。
パリ・コンセルヴァトワールの閉鎖的な教育環境のなかで,
フレンチ・ピアニズムは,
リストやアントン・ルービンシュタインら外国のピアニストからの
影響を免れ,一定期間ある程度の独自性を保つことになる。
このフレンチ・ピアニズムを代表する最後のピアニストは,
マルグリット・ロンであった。
そしてそれに代わる新たなフレンチ・ピアニズムの始まりを告げる,
あるいは旧来のフレンチ・ピアニズムの終焉を告げたのが,
彼女より3歳下のアルフレッド・コルトーであった。
彼はフレンチ・ピアニズムに,
文学的なロマンティシズム,オーケストラ的な色彩,
そして腕全体を用いる新たな奏法を導入した。
コルトーにより,新しいフレンチ・ピアニズムは,
より豊かな表現力を獲得した。
その後,イヴ・ナット,ラザール・レヴィ,ピエール・サンカンら,
優れたピアニスト=教育者により,
ロシアや他国のピアニズム,解剖学的知見を取り入れた奏法が,
閉鎖的だったフレンチ・ピアニズムに浸透していくことになる。
こうして「フレンチ・ピアニズム」にもグローバル化の波が到来し,
加えてコンセルヴァトワールの絶対的地位も揺らぎつつあるとはいえ,
変革を遂げつつ,いまだにヨーロッパの中で一定の影響力を保持している。
最後にショパンについて。
ショパンの出生地はポーランドであるが,
彼の父親はフランス人であり,主な活躍の舞台もパリであった。
歴史的悲劇ゆえにポーランドの英雄として祭り上げられているせいか,
彼のフランス性は見過ごされがちであるが,
彼がフランスから受けた影響,
そしてフランスに与えた影響は小さくはないはずだ。
しかしながら,彼は独学でそのスタイルを確立しており,
また気難しさのせいか,あまり教育熱心ではなく,
弟子をとったわけではないため,
彼のピアニズムを真の意味で継承したピアニストはいないようだ。
一般的にはジュルジュ・マティアスが
最もショパンから多くを学んだとされているようであるが,
筆者は彼さえショパンのピアニズムを完全に習得できていない,と言う。
ショパンは,各指はそれぞれの指には個性があり,音色は同じであるべきではない,
また指だけではなく,腕全体を使って演奏するように教えた。
「フランスの」ピアニストであるショパンのピアニズムの解明,
そして彼のピアノ演奏における後世への影響力を算定することが,
今後のフレンチ・ピアニズム研究の課題であろう。
French Pianism: A Historical Perspective/Charles Timbrell

¥2,420
Amazon.co.jp
邦訳はないようだ。
読解メモ代わりの拙訳(抄訳)をDropBoxに保存しているので,
興味がある方は参考にされたい。
空いた時間で少しずつ読んだので,
箇所によって,訳し方にムラがあるが,ご了承願いたい。
http://dl.dropbox.com/u/49933178/French%20Pianism.pdf
常に世界の芸術の中心であり続け,
数えきれないほどの芸術家を世に送り出しながら,
文学,美術,音楽というそれぞれの分野において,
国を代表するような「偉大な」芸術家というのが,
なかなか思い当たらない。
イギリスにはシェイクスピアが,
ドイツにはゲーテやベートーヴェンやワーグナーが,
イタリアにはミケランジェロ,ダ=ヴィンチ,ヴェルディがいる。
ある意味ではそれは1人にしぼりきれないほどに,
非常に多くの芸術家を送り出している豊穣さの証しともいえよう。
もしフランスにユゴー,ドラクロワ,ドビュッシーしかいなかったなら,
彼らがフランスを代表する人物として
揺るがぬ地位を築いていたのかもしれない。
しかし前述の他国の芸術家と比べると,
同じように「偉大」と呼ぶことが少々憚られるように感じるのだ。
ピアニストとて例外ではない。
マルグリット・ロンに始まり,
コルトー,フランソワ,そしてグリモーに至るまで,
フランスの「優れた」ピアニストを挙げればそれこそきりがない。
特に大戦後の約10年間に生まれた世代は黄金世代とも言えそうである。
ポミエ,ルヴィエ,コラール,ケフェレック,ベロフ,ロジェ,
カツァリス,エマール,ルイサダ,ミュラロ,ティボーデ…
それでもこの中で
ルービンシュタイン,ホロヴィッツ,リヒテル,ミケランジェリ,
最近ではグールド,ブレンデル,アシュケナージ,
アルゲリッチ,ポリーニ,
といった巨人たちに匹敵するピアニストがいると言えるだろうか。
コルトーは確かに偉大であるが,
とても「ピアニスト」の枠に収まるような音楽家ではない。
それではフランスのピアニストは質的に劣っているのだろうか。
決してそんなことはない。
技術的な安定感にこそ欠けるものの,
コルトーやフランソワのような演奏ができる者は他にいないし,
彼ら以降の世代は音楽的にも技術的にも,
いずれ劣らぬ「優れた」ピアニストばかりだ。
しかしそれでも彼らには「偉大な」という形容詞がどうも似合わない。
そう,彼らには前述の「偉大な」ピアニストたちのように,
押し付けがましいまでの強烈な個性がないのだ。
ではフランスのピアニストたちがもつ個性とは一体なんなのか。
それを知るべく手にしたのがこの本,
Charles Timbrellの"French Pianism"である。
このTimbrellという人,よく知らないが,
ピアニスト兼音楽学者らしい。
とにかく博識で知識欲に富んだ方で,
よくまあこんな古い録音を探し出して聴いたものだ,
と感心してしまう。
以降,自論を織り交ぜて,要旨をまとめておこうと思う。
フランスのピアニズムを形容するのに,
jeu perlé(真珠のような演奏)ということばが用いられる。
これはもともとはショパンやリスト,シューマンと
同時代のタールベルクというピアニストについて用いられた表現だが,
玉を転がるように高速で均質なタッチ,
繊細で透明感のある音色,
抑制された感情表現といった,
フレンチ・ピアニズムの特性をよく言い表したものとされる。
このjeu perléの音楽的=技術的源流は,
クラヴサン音楽にまで遡ることができる。
ピアノを基本的に打楽器ではなく,
弦楽器としてとらえるような発想はここからきている。
撥弦楽器では音の強さよりも俊敏さが求められるため,
キーを押した後,すぐに次の音が出せるように,
指は常に鍵盤と密着した形で置かれることになるのだ。
そうした伝統から生まれる鍵盤楽器演奏の理想型は,
必然的に音の強弱を駆使した重厚で豪快な演奏よりも,
タッチの均質性,美しさを追求した軽妙で繊細な演奏を
志向するようになるのだ。
ここにリストを源流とするようなダイナミックな演奏,
ロシアのピアニズムがまさに体現している演奏との違いがある。
技術的な面からすると,
フレンチ・ピアニズムが腕や肩の力を使わず,
ただ指の運動だけで演奏を行うことを理想とするのに対して,
ロシアのピアニズムはピアノの持つ打楽器的特性を最大限に引き出すべく
腕を高く上げ,腕全体の重力によるダイナミックな演奏を理想とする。
両者の美質を兼備したホロヴィッツのピアニズムの完成度は
その点で群を抜いているといえよう。
ペダリングにおいても,
フランスのピアニズムは明晰な響きを保つために
ペダルの使用を最小限に抑える。
これはプーランク,フェヴリエから
ポミエ,ルイサダにまで共通した特徴であるが,
グールド,特にミケランジェリはペダルの使用法に徹底的にこだわった。
一方,ロシアのピアニズムはペダルの使用により
豊かな響きを生み出そうとする。
特にリヒテルがそうであるが,
プレトニョフのペダリングはとりわけ興味深い。
果たしてこの2つのピアニズムを聴き比べたとき,
どちらが「偉大な」ピアニズムと言えるだろうか。
答えは後者だろう。
誇張を恐れずに言ってしまえば,
フレンチ・ピアニズムは
初めから「偉大さ」などを目指してはいないのだ。
ちょうど後にドビュッシーやフォーレがワーグナーに心酔しながらも,
その過剰なまでの表現性と爛熟した美的感覚に辟易して,
独自の音楽の確立を目指したのと同じである。
パリ・コンセルヴァトワールの閉鎖的な教育環境のなかで,
フレンチ・ピアニズムは,
リストやアントン・ルービンシュタインら外国のピアニストからの
影響を免れ,一定期間ある程度の独自性を保つことになる。
このフレンチ・ピアニズムを代表する最後のピアニストは,
マルグリット・ロンであった。
そしてそれに代わる新たなフレンチ・ピアニズムの始まりを告げる,
あるいは旧来のフレンチ・ピアニズムの終焉を告げたのが,
彼女より3歳下のアルフレッド・コルトーであった。
彼はフレンチ・ピアニズムに,
文学的なロマンティシズム,オーケストラ的な色彩,
そして腕全体を用いる新たな奏法を導入した。
コルトーにより,新しいフレンチ・ピアニズムは,
より豊かな表現力を獲得した。
その後,イヴ・ナット,ラザール・レヴィ,ピエール・サンカンら,
優れたピアニスト=教育者により,
ロシアや他国のピアニズム,解剖学的知見を取り入れた奏法が,
閉鎖的だったフレンチ・ピアニズムに浸透していくことになる。
こうして「フレンチ・ピアニズム」にもグローバル化の波が到来し,
加えてコンセルヴァトワールの絶対的地位も揺らぎつつあるとはいえ,
変革を遂げつつ,いまだにヨーロッパの中で一定の影響力を保持している。
最後にショパンについて。
ショパンの出生地はポーランドであるが,
彼の父親はフランス人であり,主な活躍の舞台もパリであった。
歴史的悲劇ゆえにポーランドの英雄として祭り上げられているせいか,
彼のフランス性は見過ごされがちであるが,
彼がフランスから受けた影響,
そしてフランスに与えた影響は小さくはないはずだ。
しかしながら,彼は独学でそのスタイルを確立しており,
また気難しさのせいか,あまり教育熱心ではなく,
弟子をとったわけではないため,
彼のピアニズムを真の意味で継承したピアニストはいないようだ。
一般的にはジュルジュ・マティアスが
最もショパンから多くを学んだとされているようであるが,
筆者は彼さえショパンのピアニズムを完全に習得できていない,と言う。
ショパンは,各指はそれぞれの指には個性があり,音色は同じであるべきではない,
また指だけではなく,腕全体を使って演奏するように教えた。
「フランスの」ピアニストであるショパンのピアニズムの解明,
そして彼のピアノ演奏における後世への影響力を算定することが,
今後のフレンチ・ピアニズム研究の課題であろう。
French Pianism: A Historical Perspective/Charles Timbrell

¥2,420
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邦訳はないようだ。
読解メモ代わりの拙訳(抄訳)をDropBoxに保存しているので,
興味がある方は参考にされたい。
空いた時間で少しずつ読んだので,
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http://dl.dropbox.com/u/49933178/French%20Pianism.pdf
言語は話したい内容を伝えるためだけのツールではない
お決まりのあいさつがそうであるように,
時に,言語が内容=意味そのものになる場合があるし,
韻律を伴う詩がそうであるように,
言語が内容に影響を与えることだってよくあることだ
私は,アメリカ人と別れるときに,
「さようなら」"If that's all we have to do..."などとは言わないし,
日本人と別れるときに,
"Salut”「神の救いがありますように」などとも言わない
それぞれの言語には固有の色,意味構造があるのだ
小説のように大きな単位でも同じことが言える
日本語に翻訳された小説を読んでも,
オリジナルの言語によって,
何となく色づかい,雰囲気が違うように感じてしまう
誇張があるのは承知の上であるが,
アメリカの小説にはポップな色やロックのリズム,
イギリスの小説には少し重さや湿り気,スモーキーな香り,
ドイツの小説にはごつごつした手触りや不気味でさえある奥行き,
ロシアの小説には土臭さや落ち着きのなさ,
フランスの小説には華やかさや理屈っぽさ,を感じる
文学において,
言語とはいろんな絵の具が載ったパレット,
あるいは,いろんな音符を奏でる楽器のようなものだ
ターコイズとロイヤルブルーが違うように,
ピアノが奏でるGとオーボエが鳴らすGが違うように。
内田樹さんなんかは,
日本語で書くときにも,
フランス語に訳すことを想定して,
文章を書くよう心がけているそうだが,
それは確かに内田さんの用いる表現だけではなく,
伝えようとする内容にも影響を与えているのではなかろうか
やや冗長であるが平明な,
難解な語彙を用いながらも平易な文章の不思議な魅力は,
そこにあるのではないかと,私は考える
私などはガチガチの日本語脳だから,
外国語の文章を読んでも,
頭のなかでしっかり日本語に変換してからでないと,
脳は意味を認識してくれない
そして,本の内容を思い出そうとしても,
もとの文ではなく,
私の頭の中でできあがった訳文しかでてこないのだ
そして,英語で書かれた文章に登場する少年は,
私の頭のなかでは,だいたいあの「ホールデン」と同じ声をしている
野崎孝さんの訳した『ライ麦畑でつかまえて』は,
私に「テクストの快楽」を教えてくれた最初の作品だったのだ
お決まりのあいさつがそうであるように,
時に,言語が内容=意味そのものになる場合があるし,
韻律を伴う詩がそうであるように,
言語が内容に影響を与えることだってよくあることだ
私は,アメリカ人と別れるときに,
「さようなら」"If that's all we have to do..."などとは言わないし,
日本人と別れるときに,
"Salut”「神の救いがありますように」などとも言わない
それぞれの言語には固有の色,意味構造があるのだ
小説のように大きな単位でも同じことが言える
日本語に翻訳された小説を読んでも,
オリジナルの言語によって,
何となく色づかい,雰囲気が違うように感じてしまう
誇張があるのは承知の上であるが,
アメリカの小説にはポップな色やロックのリズム,
イギリスの小説には少し重さや湿り気,スモーキーな香り,
ドイツの小説にはごつごつした手触りや不気味でさえある奥行き,
ロシアの小説には土臭さや落ち着きのなさ,
フランスの小説には華やかさや理屈っぽさ,を感じる
文学において,
言語とはいろんな絵の具が載ったパレット,
あるいは,いろんな音符を奏でる楽器のようなものだ
ターコイズとロイヤルブルーが違うように,
ピアノが奏でるGとオーボエが鳴らすGが違うように。
内田樹さんなんかは,
日本語で書くときにも,
フランス語に訳すことを想定して,
文章を書くよう心がけているそうだが,
それは確かに内田さんの用いる表現だけではなく,
伝えようとする内容にも影響を与えているのではなかろうか
やや冗長であるが平明な,
難解な語彙を用いながらも平易な文章の不思議な魅力は,
そこにあるのではないかと,私は考える
私などはガチガチの日本語脳だから,
外国語の文章を読んでも,
頭のなかでしっかり日本語に変換してからでないと,
脳は意味を認識してくれない
そして,本の内容を思い出そうとしても,
もとの文ではなく,
私の頭の中でできあがった訳文しかでてこないのだ
そして,英語で書かれた文章に登場する少年は,
私の頭のなかでは,だいたいあの「ホールデン」と同じ声をしている
野崎孝さんの訳した『ライ麦畑でつかまえて』は,
私に「テクストの快楽」を教えてくれた最初の作品だったのだ