077 互いに睨みあう玉名市伊倉の謎の大社 南八幡、北八幡    | ひぼろぎ逍遥

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077 互いに睨みあう玉名市伊倉の謎の大社 南八幡、北八幡       


久留米地名研究会 古川清久

20140512

これも、51011日に掛けてのトレッキングで取り上げた神社です。

熊本県の玉名市伊倉に県道を挟んで並ぶという全国的にも類例のない八幡宮が存在します。

まずは、地元観光協会による明るいと言うべきか、気らくな解説を見てみましょう。




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伊倉北八幡宮


路を挟んで南北に神社が仲良く並んでいる風景が珍しい。玉名郡司日置(へき)氏の荘園を宇佐八幡宮が買得し直接経営したことに始まり、中世に行われた下地中分線を境に南方、北方に別れました。春と夏に行われる恒例の祭りの中に、節頭馬追いや練り嫁行列があります。



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伊倉北八幡宮】住所:熊本県玉名市伊倉北方3015 電話:0968-72-3537




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【伊倉南八幡宮】住所:熊本県玉名市宮原701   電話:0968-72-2924




 二つの八幡宮が道を挟んで存在するのは只ならぬものを感じさせます。それだけでも一見の価値はあると思うことから、上記の住所なり、電話番号を入力し、まずは、ご自分で実見されることをお勧めします。

そこで、いつも利用する「神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識」により南八幡宮を見てみると


この神社は肥後井倉駅の南西約1.2kmに鎮座しています。167号線を挟んで南北に北八幡宮と南八幡宮が鎮座しているという全国的にも珍しい神社です。ネットで検索すると、このような形態なので伊倉八幡宮は「両八幡」と呼ばれており、『玉名郡司日置(へき)氏の荘園を宇佐八幡宮が買得し直接経営したことに始まり、中世に行われた下地中分線を境に南方、北方に別れました』『北八幡宮は熊襲鎮静のため南向き、南八幡宮は海外貿易の発展を祈願して有明海を望む西向きにしたと伝えられています。』と記されていました。

   広い駐車場の前に入り口があり、石垣の前には立派な仁王様が睨みを効かせてます。石段を上がり鳥居を潜ると、左手に手水舎が配され、右手には大きく枝を広げた市指定天然記念物の大楠が聳えています。手水舎の後ろには大正6年生まれの狛犬がおり、正面には「八幡宮」の額を掲げた楼門。楼門内には随神さんと木製神門狛犬もいます。

 境内に入ると正面に唐破風付き妻入りの拝殿、後ろの透かし塀内に大きく優雅な本殿が建立され、周囲には境内社や石碑が点在しています。拝殿に向かって右手には海上交通安全、悪病退散、安産のお守りともされてきたナギの木がスックと立っています。


   御祭神:応神天皇、神功皇后、併祀:仲哀天皇、健磐竜命、宗像大神

   祭礼日:春大祭・4月、秋大祭・10

   境内社:数社

   由緒:玉名市の伊倉八幡宮は、道を挟んで北八幡宮と南八幡宮が鎮座している、全国的にも珍しい神社です。なぜ北と南に分かれたのかは明らかではありませんが、創建は和銅2年(709)といわれています。

  両神社では、春(4月)と秋(10月)に例大祭が行われ、勇壮な「馬追接頭」(秋のみ)


ここで、再び「神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識」により北八幡宮を見てみると


この肥後井倉駅の南西約1.2kmに鎮座しています。167号線を挟んで南北に北八幡宮と南八幡宮が鎮座しているという全国的にも珍しい神社です。ネットで検索すると、このような形態なので伊倉八幡宮は「両八幡」と呼ばれており、『玉名郡司日置(へき)氏の荘園を宇佐八幡宮が買得し直接経営したことに始まり、中世に行われた下地中分線を境に南方、北方に別れました』『北八幡宮は熊襲鎮静のため南向き、南八幡宮は海外貿易の発展を祈願して有明海を望む西向きにしたと伝えられています。』と記されていました。

  入り口は167号線に在り、石段を数段上がると左右の玉垣脇には建立年代不明の若々しい狛犬。正面に立つ鳥居を潜ると北向きに参道が作られ、ハラハラと桜の花弁が舞う中を進むと、楼門の唐破風下にいる力神さんが手を挙げて歓迎してくれています。楼門内には随神さんと狛犬が居り、境内に入るとすぐ正面に唐破風付き妻入りの拝殿、透かし塀内に流造の本殿が建立されています。又、参道から境内には境内社や石祠が点在しています。


   主祭神:応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、配祀神:田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命、健磐龍命

   祭礼日:春大祭・4月、秋大祭・10

   境内社:数社

   由緒:旧郷社。玉名市の伊倉八幡宮は、道を挟んで北八幡宮と南八幡宮が鎮座している、全国的にも珍しい神社です。なぜ北と南に分かれたのかは明らかではありませんが、創建は和銅2年(709)といわれています。


とあります。


 戦国期の伊倉は島原半島の口之津と同様に、ポルトガル船が寄港し大友宗麟の豊後へと山越えして移動していたという国際貿易港でした。

 船はどこに着けたのかと思われるでしょうが、加藤清正以来の干拓工事(横島)によって広大な干拓地が広がったもので、当時は伊倉台地の裾まで波が洗っていた時代があったのです。

 当然にも、有明海を利用した内国貿易の拠点であり、幕末から明治にかけては竹添井井が出るなど肥後でも先進地の趣を持っていたのです。

 それはともあれ、道を挟み睨みあう伊倉の南北八幡の異様さはそれだけで誰しも感じるところでしょう。

 しかし、南北両八幡ともに、いったい如何なる神が祀られているかが知らされていないことから来る異様さが加わっているのかも知れません。

 もちろん八幡宮であり、伊倉全体が宇佐神宮領となったことから、宇佐系の祭神、応神天皇(誉田別尊)…であるとすれば容易いのですが、単純にそうとは思えない痕跡が見て取れるのです。

 一つは、南八幡社殿正面に残る木瓜紋であり(本殿屋根にも)、参拝殿の賽銭箱にはさらに大きな木瓜紋が打たれているのです。

 これが、高良大社の木瓜紋であることは容易に推察できるところであり、古くは高良の神が祀られていたように見えるのです。



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南八幡宮参拝殿


 事実、これほど立派な神社でありながら、建築の面からは八幡様式を取っていない上に、八幡宮には本来存在しない千木、鰹木が設えられているのです。

 そもそも、千木、鰹木は、現在でも中国の雲南省、貴州省などのビルマ、タイ系の少数民族の大家の住居に使われている様に、彼らの故地、揚子江河口雄域両岸の森林が豊かな領域の文化であり、木材をふんだんに使える名族、名家を意味するものなのです。

 うちはこんなに大きな木材を使える名家なのです…というわけです。

 対して、森林資源に乏しい中国の北方域から半島を経由して入ってきた八幡神を奉斎する民族、氏族にはなじまないものなのです。

 さて、北八幡宮です。

 こちらは、本殿参道が、九十度交差しており、あたかも南八幡を横から睨んでいるかのようです。

 しかも、南八幡のレベルより地盤が高く設えられており、一目、印象としては北が南を圧倒、支配しているかのようです。

 さらに言えば、こちらは、本殿に千木、鰹木が認められず、八幡様式とは言えないまでも、より、八幡宮に近い造りの社殿を持っています(豊前の大富神社に近い)。

 しかし、こちらも如何なる神が祀られているかは不明です。神社の名札も全くないのです。

 住吉の神紋(左三つ巴)さえ見出せないのですから仕方がありません。

 このような中で本来の祭神が何かを探ることは非常に難しい作業になります。

公式の御祭神:応神天皇、神功皇后、併祀:仲哀天皇、健磐竜命、宗像大神という組み合わせも、そもそも、宇佐とは異なっています。

 現在はともかく、ここにはどうも先在の神、特に宇佐神宮領となる前の神が祀られていたように思えてなりません。

最低でも、神宮領になった時点で先住者を全て追い出したとは考えられず、健磐竜命が併拝されていることからもそのことが分かりますし、現在、宇佐神宮の二の殿の祭神とされている宗像三女神がここでは宗像大神と言う妙な表現になっていることも気になります。

もしかしたら、宗像大神とは大国主命の事なのかも知れません(百嶋神社考古学では宗像大社の本来の祭神は大国主命とします)。 

 このように名札がない場合の神社の解析には、本来の神が入れ替えられ押し出された場合でも、決して先在する神々を粗末にはしないのが日本人の特性であり(祟りを恐れると言う意味もありますが)、間違っても土に埋めたり、海に沈めたり、燃やしたりはせずに、境内社として祀られる事が多いのです。

 このため、まず、境内社、摂社を先に見に行くこともあるのですが、北八幡宮でもこれが使えるようです。



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伊倉北八幡宮の元の祭神(神功皇后と夫の第九代開化天皇=高良玉垂命)か?境内社の夫婦神


これに非常に似たもの、と言っても、高良玉垂命が外されたものですが、みやま市河内の玉垂宮で見ています。絵柄と言い、色合いと言い、姿形は瓜二つです。

これこそが、仲哀天皇死後に夫婦となった神功皇后と高良玉垂命ではないでしょうか。

もし、これが仲哀天皇だとすると、本殿から出されるはずがないのです。

これを見た瞬間に伊倉の八幡宮とは元々は高良玉垂宮であったと確信しました。

右は「高良玉垂宮神秘書」の一節です。

その後、宇佐神宮に九州の宗廟を奪われた玉垂宮は、後に伊倉をも奪われ、宇佐の祭神を受け入れたのです。

つまり、本殿に祀られているのは仲哀と一緒の時期の神功皇后と応神天皇となるのです。

そもそも、玉名の伊倉と言う九州王朝の中枢領域に八幡宮がありえたはずがないのです。

菊池川右岸の玉名市中心部に鎮座する繁根木八幡宮も、十世紀に紀氏である紀隆村が大野別府の総鎮守として岩清水八幡宮から勧請したとされ、九州王朝系の紀氏=橘一族による別系統の八幡宮が存在しています。

高良大社の一族が紀氏であることは、同社の宮司も認められることでしょう。