076 アイラトビカズラは呉太伯の裔が持ち込んだ! | ひぼろぎ逍遥

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076 アイラトビカズラは呉太伯の裔が持ち込んだ!       


久留米地名研究会 古川清久

20140514


アイラトビカズラと聴いて直ぐに分かる方は少ないと思いますが、天然記念物として非常に限られた分布を示す南方系の植物です。まずは、山鹿市観光協会の説明を読んで頂きましょう。


アイラトビカズラ(国指定特別天然記念物)、昭和15年、国の天然記念物に。昭和27年に、国の特別天然記念物に指定されました。

樹齢1000年と推定される古木・アイラトビカズラ。その開花は極めて珍しいといわれていますが、毎年4月下旬から5月上旬かけて、日本中ではここだけ、紫色の大きな花を見ることができます。

ブドウを思わせるこの不思議な植物は、マメ科の常緑つる性木本で、茎の直径は10cm以上にもなります。中国大陸中南部に分布している常春油麻藤(じょうしゅんゆまとう)と同じ種類であるといわれています。

菊鹿町観光協会では、花の開花情報をこちら でお伝えしています。是非、ごらんください。

直径10cm以上もあろうかと思える「つる」が絡み合って、千年の時を越えて生き抜いたその生命力の強さを感じさせます。見事なまでの咲きっぷりです。

このトビカズラはどこから来たのでしょうか。古来、留学層が中国から種を持ち帰ったとの説が有力です。

弘仁5(814)年、相良の源平合戦のおり、燃え盛る炎のなかで、観音様がこのアイラトビカズラに飛びうつり、難をのがれたとの伝説があります。

HP山鹿市菊鹿町観光協会


ゴールデン・ウイーク前後に咲くことからかなりの観光客が訪れていますが、このようなものを何故このサイトで取り上げるかと言うとそれなりの理由はあるのです。

 もう少し、周辺の情報を拾って見ましょう。


分布[編集]

中国の長江流域が原産地とされ、日本にも広く分布していたとされるが国内では2カ所を除き絶滅。20世紀末までは熊本県山鹿市菊鹿町相良地区に一本のみ自生しているとされていたが、2000年に長崎県佐世保市の沖にある九十九島の無人島である時計(とこい)島で自生しているのが発見された。2001年に持ち帰った花弁や枝葉などを熊本県山鹿市菊鹿町相良地区のアイラトビカズラと比較して同種とされた。

ウイキペディア


ウイキペディアは、学者が“根拠が明確でなく資料的価値がない”として無視するため、当方も引用は控えていましたが、むしろ評判が落ちているのは学者の方であって、嫌がらせの意味でも逆に採用しています。

トコイ島は九十九島でも釣りのポイントとして知られており、私も一度瀬上りしていますが、そこに自生していたとは全く気づきませんでした。

次は一般の方のサイトですが、


さて、こうして大繁茂するカズラがあるかと思えば、なんと日本でたった3本しかないというカズラがある。それは、アイラトビカズラというもの。

このアイラトビカズラ、最初に発見されたのは、熊本県山鹿市菊鹿町相良。当時は、日本で自生しているのはここだけされ、国指定の天然記念物に指定された。

その後、長崎県の佐世保の無人島にもあることが分かり、国内2例目となった。ところが、3例目が

2010年、なんと我が天草で発見された。場所は、天草市倉岳町棚底地区。

倉岳登山道の入り口から数百メートルの所にある。

HP「天草のアイラトビカズラ」


蔦や蔓の類ということは承知していましたが、やはり百聞は一見にしかずの喩のとおり、通常見る蔓とは全く異なる強烈な印象を与えるものでした。

まず、トビカズラのトビの意味は鳶の口、鳶口なのだと気づきました。

それほど、鳶の嘴そっくりのもので、藤の花のようなものと考えていたものが覆されました。

蔓棚に入ると強烈な匂いと、太い蔓が垂れ下がっています。

それにしても赤褐色と言うのか赤紫というのか、トビの嘴との表現は至当と言うべきです。



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山鹿市菊鹿町相良(吾平)のアイラトビカズラ



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相良観音には以前から何度なく足を運んでいました。

ただ、開化の時期と異なることもあり、一度も実見には至っていなかったのですが、今回、「菊池、山鹿、玉名の神々」をテーマに太宰府地名研究会主催のトレッキングを行った際、久米八幡宮の吉田宮司からの強い薦めを受け、急遽、コースに入れたものです。

今回は連休明けの企画でしたが、参加者が非常に少なく、ようやく20人を超える程度の参加者でしたが、会のコアの部分が集まり、謂わば少数精鋭の現地見学会といった面持でした。

 このアイラトビカズラについては、私の認識不足から大した意味はないものと考えていたのですが、さすがは、吉田宮司、我々と目の付け所が全く違うと言うか、透徹した目を持っておられるのです。

 その、宮司の説明の要旨はこうです。

凡そ、二千数百年前、三国志の呉ではなく、呉越同舟の呉が亡んだ後、呉王夫差の一族が列島に亡命し、有明海から熊襲の領域に入ってきたと考える。

その際、大木で筏を組んだとすれば、その素材がアイラトビカズラだったのではないか?

そして、その呉の太伯王の末裔としての系図を伝える一族こそ、国立国会図書館所蔵の松野連系図に登

場する、松野鶴平、松野頼三、松野頼久の三代であり、その鶴平氏の本宅がアイラトビカズラの正面に当たる熊本県山鹿市菊鹿町木野の松尾神社のお隣なのです。

そして、この木野という地名も呉王の姓である姫(キ:中国音ジー)を置き換えたものなのです。

国立国会図書館ほかに所蔵されている「松野連系図」は、通説派はもとより、九州王朝論者の中でもあまり知られていません。

江戸時代の系譜研究者が生涯を掛けて収集されたものの一つですが、これは熊本におられた九州王朝論者平野雅(日+廣)氏の著書からスキャナーで読み込んだものです。

もちろん、菊池山鹿に圧倒的な政治的影響力を保ち続ける松野家は、当然、表立っては否定されるでしょうが、研究者内部では松野一族で保管されていた系図であろうと考えられているものです。

この系図は呉王夫差から始まり、大きくは二系統に分裂していますが、卑弥呼、倭の五王、ヤマトタケルの熊襲退治で知られる、川上タケル、川上タケルから名を貰った側の、両取石鹿文が登場するなど、驚愕の系図なのです。

しかも、倭の五王の後の数代後からは、夜須の評督に格落ちするなど、非常に興味深い点が認められます。

してみると、ヤマトタケルの熊襲退治の説話も熊襲内部の内ゲバでしかなく、それを、あたかも大和朝廷が行ったかのように偽装しているだけのものではないかといったことが見えてくるのです。

最低でも、倭の五王をどのように近畿天皇家の天皇に当てはめようとしても上手く行かないことでも分かるように、倭の五王は九州王朝の大王だったのです。当然にも、「隋書」の多利思北孤(タリシヒコ)も、九州王朝の大王でしかなく、だからこそ阿蘇山が登場するのです。

話をアイラトビカズラに戻しますが、現在の限られた分布を考える時、対馬海流が直接流れ込む佐世保湾のトコイ島、天草の不知火海側の倉岳の山裾と、海洋性海岸性の温暖な気候がアイラトビカズラの生育に対して適していたということと、容易に生息領域を広げることができない、実生のものだったことが、この限られた生息地を決定したものと考えられるのです。

では、山鹿の山奥に位置するのは何故でしょうか?それには、多少の説明を要します。

それは、縄文から弥生を跨る遠い古代、菊池、合志、植木、菊池、山鹿に掛けて巨大な湖が存在していたという「茂賀浦」(モガノウラ)の仮説を知らなければなりません。

この湖により、湖中での水平堆積によって、三号線周辺に広がる菊池平野が成立したとするものです。

詳しくは、久留米地名研究会のHPから「茂賀浦」中原 英論文をお読みいただくとして、この湖の存在が、温暖な気候を維持し、アイラトビカズラの生育を保証したものとも考えられ、また、海人族の痕跡としてのワダツミ神社の分布、宗像、田島、志々岐…といった地名が展開する理由でもあるのです。

普通の藤蔓以上に、強いアイラトビカズラは大木で組む筏の作成に役立ったはずで、呉族、越族、続いて秦に滅ぼされる四面楚歌の楚の亡命者が何派にも亘り中国大陸から熊本、長崎、鹿児島、佐賀…に入って来ていることを想像させるのです。

ここまで考えてくると、草壁吉見の一族が中国大陸から入って来ている、肥後人は中国から追われた本当の中国人、肥後人は支那人といったメッセジの意味が、アイラトビカズラの件により一層良くお分かりになって来られたのではないでしょうか?

 それにしても、吉田宮司の慧眼には改めて驚かされます。普通は、関連など見出せないようなものを、いとも簡単に謎解きしてくれるのですから。

 茂賀浦(モガノウラ)にしても吉田宮司はシカノウラと読むべきで、茂賀浦があったことから志賀島の海人族が大量に入って来ているという話をされています。

 なんとか、この二年前に行われた「『茂賀浦』はなかった」という講演をユーチューブにオンエアしたいのですが、今のところ吉田宮司が画像を準備しないことから未だ果たせません。

 この状態が続けば、音声のみでも十分に理解できるためそのまま公開に踏み切るかも知れません。

ともあれ、遠い昔、中国大陸から追われた呉越の民は、アイラトビカズラで組まれた巨大な筏船団を設え、一週間か十日間掛けて辿り着き、最後は、別途運んで来られたカズラの苗を植えたのでしょう。

 当然、再度戻り、続く人々の移住を図るために船団を設える必要を感じたからでしょう。

 凡そ、二千数百年前、帆を掛けた丸木舟に先導された筏船船団が大量の難民を引き連れ、昔から知られていた列島に移住した人々がいたのです。

彼らは周王朝の末裔である太伯王の一族を自らの指導者、支配者として受け入れ、亡命地である日本の開拓に踏み出したのです。



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