俺は走り続けている。
平川門の近くに散在するベンチの片隅に給水用のペットボトルを置いて走り始めたのは朝8時。皇居の周回は2周目に入った。竹橋から右手に国立近代美術館を見ながら橋上を登っていく坂は油断ならないが、身体の軸を少し前に傾けながら腕を縦に振れば脚は勝手に着いてくるから大丈夫だ。この酷暑で早朝や夜以外の時間帯に走る人は少ないようだけど、この「聖地」には初マラソンで4時間切りを目指している俺なんかよりも速いランナー達が無限にいて俺を颯爽と追い抜いていくのだ。速い奴らは軽やかで良いフォームをしていて吸収できる何かがあるので、抜かれた直後は10メートル後ろに着いて観察しながらしばらく追いかけるようにしているが無理はしない。よし、この先が千鳥ヶ淵だ・・・と気合を入れて走ろうとした瞬間、白とグリーンがうねり合う幾何学模様のウェアを着た女性ランナーに100メートル走のような凄いスピードで抜き去られた。その姿は美しいのだが、どこか生き急いでるような印象を受けた。
私は走り続けている。
そんなに長く走って苦しくないのとか辛くないのとか良く聞かれるし、アホな女友達は「ずっと走ってるってヒマじゃないの?」と真顔で聞いてくるけど、少なくとも仕事や恋愛よりは全然辛くない。私がマラソンを愛してるのは努力の8割がタイムに繋がる「裏切られない感」があったからだ。仕事はせいぜい努力の3割、恋愛なんて努力の1割しか結果に比例しない気がするけど、マラソンは驚くほどストレートに努力が報われる美しい世界だから身体が苦しくても心は辛くならないのよね。月300キロ走る習慣が付いてからフルの記録がサブ3.5まで伸びて女性の中では上位1%に入った40歳あたりから年齢に反して明らかにセルフイメージが上がったし。おっと、上半身がいい感じにガッシリしたタンクトップ姿の若い男が前を走ってる。ここは少しずつ近づいて、いったん後ろに着いてから頃合いを見て抜き去るとしよう。うん、上腕二頭筋もいい感じに浮き出ているじゃない。もう少し眺めてたい気もするけどここでギアチェンジして抜き去っちゃおう・・・よっしゃ一気に引き離したぜ。そしてここからはスピードの出る下り坂。この緑に溢れた壮大なお濠を眺めながら駆け下りるのが皇居ランの醍醐味よね。
僕は走り続けている。
いったい僕は何のために走り続けているのか自分でも分からなくなってきたのは、サブ3が狙える走力が付いて来たあたりからの気がする。ほどほどに走り始めた頃は明らかに健康に良かったり仕事の気分転換になったりした。でもコロナ期間中に時間を持て余して入ったランニングクラブの練習メニューをこなしていたらフルの自己ベストを何度も更新して昨年は3時間12分まで出してから・・・伸びなくなった。サブ3を達成してる人を見ると健康に悪そうなレベルまで追い込む練習をしてるし、仕事の時間を過度に削ってレースやトレーニングに時間を注いでいるようにしか見えない。まもなく30代半ばを過ぎる僕にとっては仕事も大切だし、結婚とかも考えた方がいいかなと迷い始めた・・・そんな答えが出ない問いをぐるぐる考えても景色は流れ続けて深刻にならないのがランニングのいいところだな。いよいよ僕が皇居の周回コースで最も好きな長い下り坂に入った。このお濠の下に見える桜田門までは走るというよりもスーッと落ちていくんだ。フリーフォール。ここはキロ3分台のスピードが簡単に出るから走るモチベーションが爆上がりだ。両腕を斜め前の下方向に突き出しながら加速していくと、少しバテ気味の腕の筋肉が立派な男性が走っていたのでサッと抜き去った。さらにその先100メートル前には、白いリボンのようなものでまとめた髪をキャップの後ろから出してグリーン系のウェアを着た年齢不詳の綺麗な女性が爆走しているがキロ4分は切ってないだろう。僕は下り坂の重力に身体をまかせて転がるイメージで落ちていく。僕の脚は走ってるのではなく転ばないようにバランスを取りながら跳ぶような着地を続けている。そして爆走している女性の横を抜き去ろうとした瞬間、数秒間の並走状態が続いたが、やがてふっと力が抜けたように完全に抜き去った。僕の身体は風を追い抜いた風の中の風になった気がした。













