その年は4月半ばまで咲き残った桜が結構あって、同時期に咲いたツツジの姿を目にすると自分の中にある季節時計とでもいうべきものが狂いそうな感じがした。
会社に戻る都営三田線のドアの上にあるモニターを見上げると、24億円を盗まれても気づかなかったスーパースターが滑らかに素早くバットを振り続けるCMが流れていた。
「アレ見て思い出したわ。アメリカの違法ギャンブルは日本の公営ギャンブルよりも期待リターンが高かったんやね〜!」
この業界に20年以上いるのにファイナンシャル・プランナーと呼ばれることを嫌い、自らをパーソナル・アセットマネジャーと名乗る彼は、クライアントや提携先への行き帰りに一緒に電車に乗ると広告を眺めながら奇妙な話を始めるのが常だ。私は「違法なギャンブルの方が期待リターンが高いって、なんのエビデンスがあって言ってるんすか?」とツッコミを入れた。
「そりゃあ、世界一有名になった通訳さんがNイコール19000のFBI捜査官お墨付きの世界最高のエビデンスを出してくれはったやないか」
と口走りながら、さっきからずっとモニターの中で爽やかにバットを振り続けている男を指差したので、それは通訳じゃなくて元通訳というか泥棒でしょと心の中でツッコミながら「えっ、FBIのお墨付き?」と私は聞き返した。
「FBIが公表した捜査データによると、イッペイちゃんが平均12,800ドルを19,000回賭けた総額が365億円で純損失が62億円。差額の303億を365億で割ると還元率は83%くらい。これが100回程度やったら信頼できひん数字やけど、FBIが事実確認したN=19000の統計データいうたらムッチャ信頼できるで」
次は神保町、ネクストップイズジンボーチョー、という無機質な車内アナウンスが流れる中、億単位の数字がいくつも入った彼の話は熱を帯びて勢いがついてきて私もその着地点が気になってきた。「その還元率83%って、ギャンブルとしては悪くない数字なんっすか?」
「せやな。日本の宝くじの還元率は50%未満やし、競馬など日本の公営ギャンブルの還元率は目安75%、実際は70%から80%の間みたいやな。あとパチンコはだいたい80%台らしいで」
「へぇー、まあ確かに悪くないじゃないですか。何がダメだったんすかね?」
「還元率83%いうとええ思う人もおるかも知れへんけど、それを『期待リターン』に直すと1回あたりマイナス17%やで。今後10年の期待リターンが年4%台のドル建て債券や、長期の期待リターンが年7%以上の株式に比べたら相当不利って分かるやろ」
「確かに、期待リターンに直すとギャンブルとまともな投資の差は歴然としてますねー。でもなんでギャンブルのほうが儲かりそうと錯覚しちゃう人が多いんすかね?」
「そりゃリスクが高いからやろな。あー、ここでいうリスクは危険とかやなくて、数学的な意味のリスク『リターンのブレ』の大きさのことや」
「リターンのブレの大きさ?」
「ギャンブルの場合は、短期間で投じた資金がゼロになったり10倍になったりするやろ。このブレの大きさつまりリスクが人の感情を派手に揺さぶるから、長期的に最も重要だけど地味な『期待リターン』からシロートは目を逸らしちまうわけやな。でも、期待リターンが低いこと自体は決して悪いことやないで」
「えっ、期待リターンが低いのは、マイナス17%みたいのが繰り返されて損失が拡大する一方だから明らかに悪いことじゃないっすか?」
「宝くじを買うのも、ギャンブルをするのも『投資』やなくて『消費』と思っとるうちは何の問題もないんや。もちろん適法な範囲であることが前提な。自分のお金使って気晴らしするのは、たとえ他人から見て無駄遣いでも全く悪いことやないやろ。でも…」
「わかった。消費活動を投資活動と錯覚すると、消費的な満足を得られない消費活動に苦しみながら損失を拡大し続けることになる!」
「そのとおりや。悪いのは消費やなくて錯覚。悪いのは無駄遣いやなくて誤った事実認識。悪いのは損することやなくて、幻想を買い続けることや」
「幻想を買う・・か。今回の事件における幻想を買うってのは『期待リターン』が低い対象に賭け続けることっすね。まあ、もっとよくある話だと期待リターンがマイナス50%以上の宝くじを『ずっと買い続ければ、いつかは儲かるはずだ』と幻想を抱いてる人は少なくないでしょうから・・」
「せや。期待リターンがマイナス17%のギャンブルで当然それなりに損して判断力が低下した後に『もっと大きく賭けて上手く当てれば、これまでの損を一気に取り返せる!』などとアドレナリンを放出させながら幻想に浸って損失を数十億円レベルまで複利成長させちまうのは、イッペイちゃんと同じような状況に置かれたら意外と誰にでも起こり得ることかも知れへんなぁ」
「・・と自戒してるうちは大丈夫っすね! ちなみに、あの人は最後にスーパースターと会った際にこう言って謝罪したそうですよ」
「なんて言うたんや?」
「この度は多大なるご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。これからの人生、私は二度とギャンブルはやりません。ええ、もちろん賭けてもいいですよ!」
「言うわけないやろ!もうええわ」
近況。つい数日前に年明けから続いた大量の原稿仕事が全て完了して、色々重なって最も忙しい状態からはようやく解放されたとホッと一息ついたところで、、ふと気づくともうゴールデンウィーク直前ですね〜。私は引き続き新規のお客様の相談を受ける余力がありません(既存のお客様のみ可)が、会社全体としては少し余力がありそうです。
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