序章 60年目の熱狂の理由
2025年5月3日、ネブラスカ州オマハにある巨大なCHIヘルスセンター・アリーナは、かつてない熱気に包まれていた。約2万人もの人々が埋め尽くした会場に、嵐のような拍手が鳴り響く。それは、まるで永遠に続くかのようにアリーナの天井までこだましていた。
壇上のウォーレン・バフェットは、その拍手の渦中に静かに立っていた。彼の顔には深い皺が刻まれ、その堅牢な知性を象徴する眼鏡の奥の瞳は変わらず穏やかでありつつも鋭い光を宿していた。今から60年前、彼がまだ30代半ばで初めてバークシャー・ハサウェイの株主総会の議長としてこの壇上に立った時、まさか94歳になっても全く同じ役割で壇上に立ち、しかも100倍以上の広さの会場で熱狂の中心にいるとは夢にも思わなかっただろう。当時のバークシャーは、瀕死の繊維会社に過ぎなかったのだから。
彼がその繊維会社バークシャー・ハサウェイ社を買収した1965年から、実に60年の歳月が流れた。その間、同社の株価は驚異的な成長を遂げ、6万倍以上にも膨れ上がった。これは年平均にして約20%という、途方もないリターンに相当する。5年や10年といった短い期間であれば、この水準のリターンを叩き出した投資家は数多く存在する。しかし、半世紀以上にわたる長きにわたり、これほどの卓越した成績を維持し続けた投資家は、人類の歴史上、ウォーレン・バフェットただ一人であり、今後も彼に匹敵する者が現れることは決してないだろうと多くの専門家が断言していた。
そして今日、彼は同社のCEOとして迎える60回目の株主総会という歴史的な場で、年内でのCEO退任を発表した。もちろん、バークシャーの会長職は続ける。しかし「オマハの賢人」として、半世紀以上にわたり世界の投資界を牽引し続けた彼が最高経営責任者の座を降りるというその決断は、アリーナを埋め尽くした株主たちの心に、大きな寂しさと共に、計り知れない賞賛と感謝の念を呼び起こした。拍手は衰えることなく、まるで会場全体が、彼への敬意と愛情を込めて、その偉大な功績を讃え続けているかのようだった。その光景はバフェットの人生とキャリアの集大成を雄弁に物語っていた。
第1話 人生は意外と長い
その日の夜、バフェットは会社から車で5分の距離にある自宅に帰った。長い一日の終わりに彼を待っていたのは、書斎の真ん中に鎮座する、見慣れない大きな荷物だった。それは、電話ボックスより一回り小さい、艶やかな黒い箱型のブースで、その側面には、流麗な金色の筆記体で「D.D.」という文字が神秘的に彫り込まれていた。箱のラベルに書かれた送り主の欄には「Charlie Munger」と書かれていた。
バフェットの脳裏に、古き友の顔がよみがえる。バークシャー・ハサウェイの副会長として45年もの間、彼の傍らで共に歩み、彼の投資哲学を支え、時には鋭い指摘で彼を導いたチャーリー・マンガー。しかしチャーリーは今から1年半前、99歳でこの世を去っているはずだ。亡き友からの謎めいた贈り物に、バフェットは深い不審と、抑えきれない好奇心を覚えた。彼はゆっくりと、その黒い箱型のブースの扉に手をかけ、静かに開いた。
ブースの中は、思いのほかゆったりとしており、中央にはシンプルな椅子が一脚置かれているだけだった。バフェットは中に足を踏み入れ、椅子に腰を下ろすと、まるで何かに吸い寄せられるようにドアが音もなく閉まった。その瞬間、視界は一瞬にして揺らめき、次の瞬間には、彼の目の前に全く異なる光景が広がっていた。そこは、ネブラスカ州オマハのダウンタウンにある、彼が長年通い慣れたマクドナルドの店内だった。窓からは見慣れた通りの風景が見え、フライドポテトの油の匂いや店内に響く子供たちの笑い声までもがあまりにも現実的だった。そして、目の前のテーブルには、年老いてなお、まるで少年のようにつぶらな黒い瞳を持つチャーリー・マンガーが、いつものようにチーズバーガーを手に座っていた。
「ウォーレン、久しぶりだな」チャーリーの声は、彼の記憶の中にある、あの特徴的なしわがれた響きと、どこか皮肉めいた口調そのものだった。「これを見てるということは、もう私はこの世にはいない。そして、君はついにバークシャーのCEO退任を決めたんだな?」
刻まれた一つ一つの皺までもが驚くほど臨場感に溢れるチャーリーの顔を眺めながら、バフェットは動揺を隠しきれずに答えた。「そりゃそうだけど、チャーリー、これは一体なんなんだい? 君は…一体どうやってここに?」
チャーリーは、わずかに口角を上げた。「その質問には今は答えない。私にとって、それはもはや些末なことだ。だが、これから君に対して三つの質問をするから、イエスかノーで答えてくれ。余計な言葉は要らない」
「相変わらず、チャーリーらしい強引さだな。しかし、その潔さは嫌いじゃない。いいだろう、なんでも聞いてくれ」バフェットは苦笑しながらも、この奇妙な状況に少しずつ順応し始めていた。
「よし、じゃあ一つめの質問だ。君は今でも、新たな学びを得て成長し、『能力の輪』を広げたいと思っているか?」チャーリーの目は、真っ直ぐにバフェットを見つめていた。
「もちろんさ。君に比べたら、まだ94歳のヨチヨチ歩きの若輩者だからね。死ぬまで学び続けたいと思っている」バフェットは即座に答えた。
「ヨチヨチじゃなくて、ヨボヨボじゃないのか?」チャーリーは愉快そうに喉を鳴らした。その笑い声までが本物そっくりで、バフェットは思わず息を呑んだ。
「じゃあ、二つめの質問。君は成長するためには、好きな人だけでなく、『嫌いな人』や『正反対の考えの人』とも対談をすることを厭わないか?」
「大歓迎だね。特に今後はCEOとしての責任が減って精神的にも余裕ができるだろうから、敢えて異なる考え方を持つ人々と会話や議論をしたほうが、新たな学びが多いかもしれない。むしろ、自分とは違う視点からの意見は、私にとって常に貴重なものだった」バフェットは、自身の哲学に忠実に答えた。
「ウォーレン、今回の退任は良い決断だったようだな。いま君がこのブース内で体験している世界、『ドリーム・ダイアログ』では、君の潜在意識が会話したいと望む相手との、驚くほどリアリティに溢れた対談が定期的にセッティングされる」チャーリーは、彼の期待を煽るかのように告げた。
「それは凄い! いま私がチャーリーと話しているように、声質や匂い、そして場所の空気感まで、まるで現実のように好きな人と話せるのかい?」バフェットは、驚きと興奮で身を乗り出した。
「その通りだ。古今東西の偉人や賢者と話すことができる。歴史上の人物であろうと、君が尊敬する人物であろうと、このブースは君の潜在意識と、そしてD.D.社の持つ最新の人工知能が学習した膨大な情報をもとに、最も意味のある対談相手を選び出す。ただし、一つだけ条件がある。好きな人との対談がセッティングされるとは限らない。君の学びや成長に役立つと判断されれば、『嫌いな人』や、君とは全く異なる考え方を持つ人物も必ず登場するだろう」
「悪くないね。いや、むしろ素晴らしい。今から60年以上前、私に嘘の約束をして当時のバークシャー・ハサウェイ社長を大嫌いになったが、今となっては彼がいたからこそ今のバークシャーがある。もはや感謝しかない。チャーリー、この『ドリーム・ダイアログ』の使い方を早く教えてくれ」バフェットの目には、かつてないほどの知的な探求心が宿っていた。
「焦るなウォーレン、人生は意外と長いもんだ! 私も99歳と11ヶ月まで生きちまったからな。この仮想空間体験ブースは、『人類全体の智慧を高める』という崇高な理念を持ったD.D.社が、無料で提供してくれているものだ。私も2023年に100日間試してみたが、生涯最高の学びと癒しを得られる体験だった。もし君も同じ体験をしたかったら、次の質問にイエスと答える必要がある」チャーリーは、最後の問いかけへと移った。
「その質問ってのは、いったいなんだい?」バフェットは、真剣な面持ちでチャーリーの言葉を待った。
「三つめの質問。君は、これから実施する仮想空間でのスペシャルな対談の記録を、『人類全体の智慧を高める』というD.D.社の理念に賛同し、全世界に無料公開することに同意するか?」
5秒間の沈黙が流れた。バフェットの脳裏には、これまでの投資人生、そしてこれからの人生の意味が駆け巡る。やがて彼の顔に、確信に満ちた表情が浮かんだ。
「Yes, Absolutely.」
彼の力強い返答が店内に響き渡った。
翌日、サンフランシスコに本社を構える教育系ベンチャー企業D.D.社から意思確認の電話があった。そして、彼がバークシャー・ハサウェイのCEO退任を発表した10日後から「ウォーレン・バフェット 夢の対談」プロジェクトが正式に開始されたのだった。
この物語の続きはこちら!
https://tales.note.com/mitswan/wkop5ja4puzh9
この物語、序章は実際にあった出来事を描写したノンフィクション。
第1話から最終話までは1坪未満の狭い空間内で展開されるフィクションですが、話のスケールの大きさは宇宙レベルに馬鹿でかいんですよ〜!