吉田君、素粒子の芯が見えたかい?
高校の同窓会で初めて知った。吉田健介君が亡くなっていた。彼は吉田茂の孫で、麻生元首相とは従兄である。文学者吉田健一氏の子息であるが、健一には妹和子がおり、彼女は九州の石炭財閥である麻生家に嫁ぎ麻生太郎を生んだ。
麻生太郎はスポーツマンであり経営者から政治家になった。吉田君はそれとは対照的だ。暁星からケンブリッジ大学を出て物理学者になった。麻生太郎そして次郎氏は麻生家の私塾のような学校を出てから学習院に進学した。麻生太郎氏が首相在任中漢字が読めないと世間から揶揄されたが、そんな経歴にも原因していたのかも知れない。
ただし、麻生次郎氏の方は優秀だったと伝えられている。しかし、彼は1965年3月20日学習院大学4年の時ヨット事故により亡くなった。初島レースと言って熱海沖の初島を回って帰って来るレースであった。日本のヨットレースは当時はレーダーも持たない大学ヨット部が参加していた。横浜からスタート地点の油壷に回航していた学習院のヨット「翔鶴」が嵐に見舞われ、乗船していた5人全員が亡くなったのである。
実はこの事故が起こる3年前、同じ初島レースで早慶のヨットが遭難し、合計11名が死亡している。現在に至るまで日本最大の遭難事故であった。この時は早々と捜索は打ち切られ遺体もほとんど見つからなかった。それに対し、翔鶴の時は海上自衛隊から航空自衛隊まで総動員し長期にわたって異例の大捜索が行われ、全員の遺体が上がり翔鶴の船体さえ引き揚げられた。元首相の孫が遭難者に含まれていたからだと批判された。
吉田健介君の方は暁星中学時代身体は華奢で、周りの見るところスポーツには無縁だった。暁星高校に上る頃になると頑健になったものの、スポーツと言えば握り飯をもって一人山に登るくらいだった。高校に入って早々、生徒たちが席をはずしている間に教師が荷物検査をした。煙草やまんが本でも探したのだろうか?教室に戻って来てそれを知った彼は一人教壇に立って教師を糾弾したそうだ。おとなしく繊細そうな彼が堂々と批判演説をしたことに同級生たちは一様に驚いたと言う。父親譲りの堅固なリベラリズムが彼の中に生きていた。
私は高校の数学クラスで同級だったが、ある日先生の出題した問題を解けたのが彼一人であった。当然、彼が自分の解を黒板に書いたのだが、私はそれを理解できなかった。私は、学生そしてそれに続く研究者人生で問題を解けなかった事は数限りなくあったが、答えを理解できなかったのは後にも先にもこの時だけである。
物理学者を目指していると言う事で親しくなったものの、天才的な彼はごく自然に東大の数学科に進み私とは疎遠になった。私の方は浪人し、1年遅れで物理を勉強し始めた。しかし、噂で聞こえて来たのは、彼が東大2年でケンブリッジ大学に移ったと言う事だった。父君がケンブリッジで学んだのに倣ったのであろう。彼はケンブリッジで博士号をとり、イタリアのミラノ大学教授になった。
ある年、日本の研究者がイギリスの教授から聞かれた。「ドクター吉田は日本の大変偉大な一族と言う噂があるが本当か?我々が聞いても口を割らないから君が聞き出してくれないか?」 当時吉田君は大変シャイで私事を話すような事はなかった。その日本人は研究者としての付き合いしかなく、吉田と言う名前から候補を思い浮かべて吉田君に質問した。「君のご父君は英文学者でしたよね?」 彼は小さな声で答えた。「そうです。」 続けてその日本人研究者は確認の質問をした。「そして、お祖父さんは駐英大使でしたよね?」 「ええ」 以外と短時間に聞き出す事が出来た。
私たち世代で物理を志した人は大部分が湯川秀樹に憧れてこの道に進んでいる。しかし、私達が大学院生になった時代、素粒子論の方は大変な壁にぶつかっていた。湯川博士に言わせれば、アインシュタインが何十人出現しても難関を突破するのは難しい。博士は物理の若手に対しのびのびと活躍できる、天体物理と生物物理の研究を推薦していた。素粒子論の若手が何人も天体や生命の研究に転身して行った。私も湯川博士の言を口実に素粒子論を離れた。その後、生物物理をやろうと医学部の研究職にありついた。
私はその後脳神経に関する国際学会でミラノに出張した事がある。全く余裕のない旅程だったので彼を訪ねる時間もなかった。しかし、その後何十年、イタリアに彼を訪ねるチャンスはいくらでもあると泰平楽に思っていた。吉田君がローマ大学の教授になった頃私も年齢的に研究のピークを過ぎイタリアを訪ねると言う機会もそれほど多くはなくなっていた。
吉田君は最新のひも理論に挑戦していた。湯川秀樹博士が死ぬまで苦闘し解決できなかった、素粒子の最終解を与えるとも言われていた。最近知った事だが、ローマ大学に移った頃から毎年秋頃になると帰国しセミナー講演をしていたらしい。ある年、身体の不調を訴え慈恵医大で診察を受けた。医者の結論は癌であったが、彼自身は指導していたローマ大学の大学院生の事を心配していたと言う。吉田健介君は2008年8月29日東京で亡くなったが、麻生太郎氏はその翌9月に総理総裁に就任している。
2011年11月5日、暁星の同窓会が開かれた。私は受付で同級生の名簿に目を通した。年齢ゆえ当然ではあるが、2-3割は鬼籍に入っている。しかし、その列に吉田健介の名前が並んでいる事に我が目を疑った。彼は3年も前に亡くなっていた。ついこの間まで高校生の気分でいたが、もう半世紀も経っていた。イタリアに彼を訪ねるなど、夢のまた夢の、儚い先の話になっていた。
彼はイタリア人と結婚し娘さんを一人残した。二人とも何度か日本を旅行したが日本語は話せず、現在イタリアにいらっしゃると聞いた。彼は横浜の久保山墓地に眠っているらしい。私の実家のすぐ近くで、私にとっては何かと思い出のある墓地である。近いうちに彼の墓に参ろうと思っている。
私は現在「日本の科学者列伝」と言った本を準備している。開国と同時に世界の檜舞台に躍り出て行った日本人科学者、特に物理と医学を中心に描いたものである。中心的なのは湯川秀樹等であるが、これから吉田君の事を加えようと考えている。そのために、妹君である吉田暁子氏や2、3の物理学者に取材を予定している。
今夏あたりに出すと言う事で出版社で既に校正編集が進んでいたが、少し後ろに伸びても吉田君の事を書き留めておきたいと思う。
なお、彼の名前でインターネットを探すと、物理学者による彼の思い出を読む事が出来る。
福島からの報告
5月30日(火)夕方6時、福島の広野にようやく到着。常磐高速道で行ける一番北のインターチェンジ、第一原発から20キロ地点です。途中のサービスエリアでは係員が、「原爆以来、広野から北は封鎖です」と、説明していました。原発北側の南相馬などは爆発当時の風の関係で酷く汚染されました。しかし、広野、磐城など原発の南側はそれに比べればずっと軽いとの放射線量のデータが出ています。
インターチェンジの隣には巨大な2本の煙突が見えます。火力発電所ですが、こちらも海岸の付属施設が津波でやられ、煙突の煙は見えません。修復中でした。私と逆に広野で高速に乗る車が、長い列を作っています。全て、この発電所か原発で働いて来た作業員の方たちが帰るのです。なお、こんな仕事終わりの時間に高速を降りるのはもちろん私の車だけでした。
出口のすぐ近くに東電の対策本部があります。J-ビレッジと言ってサッカーのナショナルトレーニングセンターですが、東電が作ったものです。サーカー場が7面と豪華な事務、宿泊棟から出来ています。
「なでしこジャパン」もここで合宿を重ねましたが、選手たちは建物の立派さに感嘆の声を上げたものです。今は、逞しい多数の作業員がフイルムバッジや防護服の準備でごった返しています。
翌日、そのトイレで若い作業員がおしゃべりしているのが耳に入りました。「早くここから離れたいよ。線量低いらしいけど気持ち悪くてしょうがない!」。これから仕事の、まだ昼前でした。
対策本部の二人の責任者にお会いしましたが、原子炉出身ではなく一人は電気、もう一人は機械出身と言ってました。バスが第1原発、第2原発方面、東京方面に出ており、他に、日立や東芝などのバスもあります。
以上の本部棟に達する前に立派な別棟もあります。そこは関電工や前田建設など対策本部を設営する業者が常駐しています。彼らも含めれば確かに数千人が常時携わっているようです。とにかく広大な敷地がまるで予め都合良く準備されていたかのようです。J-ビレッジの入り口付近に、大きな夏のリゾート施設がありますが、そこは東芝対策本部が借り切っていました。とにかく、民間のホテル、宿屋は作業員で一杯です。
一方、地元の工場は多くが閉めてるようです。商店街も無傷で残っていますがゴーストタウンでした。民家の造りは新しいものが多く震災の被害を受けているようには見えません。ところが、ここもまた生活の臭いがしないのです。若い奥さん方が子供を連れて避難してしまったためです。ただし、寂しい田舎だったのに道路の交通量は震災以前に比べ桁外れに多くなったそうです。ほとんどが原発関連です。
5月31日(水)、海岸に沿って南下。広野から10キロほどの「久之浜」という漁港が印象的でした。ここから上がる魚は昔から美味しいのでブランド品です。しかし、加工場も市場も売り場も、一階は津波が壁を突き破り、向こう側の景色がそっくり見えます。その上、港内は漁船が沈んだままです。分厚い防波堤が崩れているのにはびっくりでした。
「久之浜」は、震災、津波、放射能以外に、中心街が火事にも見舞われ灰になりました。海岸の民家は燃えませんでしたが、震災からもう半年、片付けられて基礎だけの住宅地も多いです。
また、海岸で幼稚園の残骸を見掛けました。
子供向けの明るいデザインが却って寂しさを感じさせます。この「久之浜第一幼稚園」では、震災当日逸早くバスで山の方に逃げたので全員無事だったそうです。しかし、親の所(低い住宅地)にバスで向かったために園児全員犠牲になったケースもありました。ちょっとした判断の差で取り返しのつかない事になるのですね。
久之浜の被災の実情はネットに多数アップされています。「久之浜」で探せばYouTubeで被災直後の動画も見る事が出来ます。 |
近々福島原発事故に対する私の考えを報告します
私は学生時代原子核工学を勉強しました。原子炉メーカーなどで働いた同級生も多く、中には頼まれて市民からの電話相談に対応した人もいます。この半年間メール網で色々とやり取りして来ました。近々私の考えをまとめ、何らかの手段で報告したく思っています。
English Journal 5月号で「先端脳科学者による一ヵ月英会話脳トレ」をプレゼント中
英語学習の新しい方法論
「先端脳科学者による一ヵ月かんたん英会話脳トレ」
アスキーメディアワークスより発刊
どんな所が新しいか。
① 発音は新しく開発されたカタカナ表記。
国際発音表記はギリシャ文字を含んでいて日本人には敷居が高く拒否反応さえある。本書では新しいカタカナに対して、国際発音記号と同じ定義を与えました。日本人にとって、ギリシャ文字よりずっと親近感がもてます。実は原聡元ポルトガル大使が昔のカタカナ表記を英語の発音に利用する事を薦めていました。本書の新カタカナ表記に対しても、カスタマーレビューやジュンク堂書店員からお褒めの言葉を頂いています。
② 発音重視。
最初に正しく発音できなければ勉強を進められない。日本人が不得意とする難しい発音に集中する。あれもこれもとやると結局息切れして挫折する。
③ 弱勢に注目。
私たちはアクセントを一生懸命やるが、結局通じない。なぜなら、アクセント以外の部分を弱く読む事を知らないから。強勢(アクセント)だけ気にして弱勢を知らない事が日本人の英語の最大の弱点と言える。
④ 暗唱練習を徹底。
暗唱する間に、何度も読むので難しい英語の発音も自然に出て来るようになる。
頭で判っているだけでは、とっさの英会話には出て来ない。暗唱によってトレーニングを重ね、身体に覚え込む事が肝要。記憶の弱い意味学習ではなく、運動学習を勧めたい。英語の発音は、社会理科のような意味学習ではなく、スポーツのような運動学習と考えるべきである。
⑤ 日本語の発音と英語の発音の大きな違いを認識する。
日本語の音韻は世界でも最も少ない部類にはいるが、英語は音韻が世界でも最も豊かである。日本人はその意味では英語には最も向かない。そのあたりを、
音韻構造に遡って認識しないと学習しても実を結ばない。
⑥ 和製英語の成り立ちを理解して利用する。
日本人はしばしば和製英語に邪魔されて、ネイテイブに通じない事が多い。
その癖を正しく認識し、味方につけるのが後藤メソッドである。
⑦ 英会話の癖を付けるトレーニング。
独りで英語をしゃべるトレーニングにより、英会話脳を作る。
以上のトレーニングを31日に分け、1ヵ月で基本を習得する。
●エピソード
ニューオルリーンズの学会でランチ。左端が私、隣がジミー。
皆が注文したコーンビーフのサンドイッチを私も注文。
コーンビーフと言っても、あちらでは極薄にスライスしたハムを大量に挟んだ物で、とてもおいしかった。
★鎌倉の円覚寺を案内
来日したジミーと私
私は研究者ですので40年以上にわたって英語で苦労してきました。本書では日本人の注意すべきところやコツを披露しました。アメリカ、イギリスと2回にわたる留学で得られた英語経験も大事な柱になっています。特にコロンビア大学留学中のニューヨーク生活は多くのことを私に教えてくれました。ジミー・シュワルツ教授には大変お世話になり、第2の父親といっても良い存在になりました。しかし、到着間もない頃私の英語で一瞬彼を怒らせた事を紹介しています。さて、その後事態はどうなったでしょうか?巻末の謝辞に顛末を書きました。
この一件で私が言いたかった事は、英語学習も最終的にはネイテイブスピーカーとの人間関係で決まるし、その後のコミュニケーションも単なる英語力より人間関係、あるいは人間力によって決まると言う点です。
知り合いからは、今までの英語本に比べて本書は一味も二味も違うと評して頂きました。ご一読頂ければ幸せです。
雑誌、English Journal 5月号で「先端脳科学者による一ヵ月英会話脳トレ」をプレゼント中です。
締め切りは4月30日。計3冊プレゼントされます。どうぞ、ご応募ください。