福島からの報告 | 後藤秀機の出版日記

福島からの報告

 5月30日(火)夕方6時、福島の広野にようやく到着。常磐高速道で行ける一番北のインターチェンジ、第一原発から20キロ地点です。途中のサービスエリアでは係員が、「原爆以来、広野から北は封鎖です」と、説明していました。原発北側の南相馬などは爆発当時の風の関係で酷く汚染されました。しかし、広野、磐城など原発の南側はそれに比べればずっと軽いとの放射線量のデータが出ています。
 インターチェンジの隣には巨大な2本の煙突が見えます。火力発電所ですが、こちらも海岸の付属施設が津波でやられ、煙突の煙は見えません。修復中でした。私と逆に広野で高速に乗る車が、長い列を作っています。全て、この発電所か原発で働いて来た作業員の方たちが帰るのです。なお、こんな仕事終わりの時間に高速を降りるのはもちろん私の車だけでした。
 出口のすぐ近くに東電の対策本部があります。J-ビレッジと言ってサッカーのナショナルトレーニングセンターですが、東電が作ったものです。サーカー場が7面と豪華な事務、宿泊棟から出来ています。


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 「なでしこジャパン」もここで合宿を重ねましたが、選手たちは建物の立派さに感嘆の声を上げたものです。今は、逞しい多数の作業員がフイルムバッジや防護服の準備でごった返しています。
 翌日、そのトイレで若い作業員がおしゃべりしているのが耳に入りました。「早くここから離れたいよ。線量低いらしいけど気持ち悪くてしょうがない!」。これから仕事の、まだ昼前でした。
 対策本部の二人の責任者にお会いしましたが、原子炉出身ではなく一人は電気、もう一人は機械出身と言ってました。バスが第1原発、第2原発方面、東京方面に出ており、他に、日立や東芝などのバスもあります。
 以上の本部棟に達する前に立派な別棟もあります。そこは関電工や前田建設など対策本部を設営する業者が常駐しています。彼らも含めれば確かに数千人が常時携わっているようです。とにかく広大な敷地がまるで予め都合良く準備されていたかのようです。J-ビレッジの入り口付近に、大きな夏のリゾート施設がありますが、そこは東芝対策本部が借り切っていました。とにかく、民間のホテル、宿屋は作業員で一杯です。
 一方、地元の工場は多くが閉めてるようです。商店街も無傷で残っていますがゴーストタウンでした。民家の造りは新しいものが多く震災の被害を受けているようには見えません。ところが、ここもまた生活の臭いがしないのです。若い奥さん方が子供を連れて避難してしまったためです。ただし、寂しい田舎だったのに道路の交通量は震災以前に比べ桁外れに多くなったそうです。ほとんどが原発関連です。
 5月31日(水)、海岸に沿って南下。広野から10キロほどの「久之浜」という漁港が印象的でした。ここから上がる魚は昔から美味しいのでブランド品です。しかし、加工場も市場も売り場も、一階は津波が壁を突き破り、向こう側の景色がそっくり見えます。その上、港内は漁船が沈んだままです。分厚い防波堤が崩れているのにはびっくりでした。


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 「久之浜」は、震災、津波、放射能以外に、中心街が火事にも見舞われ灰になりました。海岸の民家は燃えませんでしたが、震災からもう半年、片付けられて基礎だけの住宅地も多いです。



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 また、海岸で幼稚園の残骸を見掛けました。


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 子供向けの明るいデザインが却って寂しさを感じさせます。この「久之浜第一幼稚園」では、震災当日逸早くバスで山の方に逃げたので全員無事だったそうです。しかし、親の所(低い住宅地)にバスで向かったために園児全員犠牲になったケースもありました。ちょっとした判断の差で取り返しのつかない事になるのですね。



久之浜の被災の実情はネットに多数アップされています。「久之浜」で探せばYouTubeで被災直後の動画も見る事が出来ます。


近々福島原発事故に対する私の考えを報告します
 私は学生時代原子核工学を勉強しました。原子炉メーカーなどで働いた同級生も多く、中には頼まれて市民からの電話相談に対応した人もいます。この半年間メール網で色々とやり取りして来ました。近々私の考えをまとめ、何らかの手段で報告したく思っています。