オリンピックが(直接的にも間接的にも)この感染拡大を招いたことは明らかなのに、まだパラリンピックとか、あまつさえ学童集団観戦とか言ってる怖ろしさ。それ集団感染になりまっせ。首都圏の方々、くれぐれも、お子さまを大切に。ご家族を大切に・・。うっかり感染すると自宅に放置され、一家丸ごと犠牲になりますぜ・・。もちろん首都圏だけでなく全国的にも・・だけど。

夏に向かってパタパタっと生徒さんが増え、そのほとんどがリモート指導ということになった。首都圏の生徒さんも中京圏の生徒さんも受け持つようになり、もともと知っている近畿圏の受験事情と比較できるところがまた面白い。もとい、勉強になります。大学受験は近畿圏の学生さんでも東京の大学受けたい人がいっぱいいるので、関西の私大と首都圏の私大の差ぐらいなもんで、それほど変わりないけど、やっぱり中学受験は地元にほぼ密着していて、いろいろ違うところが出てきますね。やっぱり肌感覚からも首都圏がいちばん厳しいかな?

パソコン画面を通じての指導、何かと不自由なところもありますが、なんとか工夫してやってます。

リモート指導だけの生徒さんたち、昨年も一度もお会いせず終了してしまった方もいるけど、受験が終了してからでもいいけどリアルにもお会いしたいな・・。

大雨も続く、感染拡大の危機的状況も続きそうですが、みなさまご家族ともどもなんとか生き延びてください。そしてお子さまの将来に、この危機が少しでも翳りを落としませんように・・。

小学生が「答えを丸写しする」のはようわかる。

そんなん自分にとって何の勉強にもなってない、むしろ自分の人生の時間と労力を無駄にしてるだけやん!とか言うてみたって仕方ないことであって、その子にとっては「自分の勉強」よりも「とりあえず親/教師の目をあざむいてこの場を切り抜けること」が喫緊なのだから・・。

だけど、流石に大学受験生あたりにこれやられると暗然とするなぁ・・。もう自分の頭でちゃんと考えられる年齢でしょ? 親/教師にええ顔するのと、自分が本当にその学習課題を理解するのとどっちが大事?

・・と相手を責めそうになって、ハッと思う。

たぶん、わたし(教師)の圧力がキツすぎて、とりあえずこの場を切り抜けることがその子にとって大事になってるのかな?と。(同時にこの子は、これまでも親や教師との関係でこういうことを繰り返してきて習い性になっているんだろうなぁ・・とも)。

教師 vs 生徒の非対称な関係もあるんですが、どうもわたし自身の本来の性格もあるようで、ともすれば、押し付けの圧力がキツすぎて、繊細なお子さんを傷つけていることがあるかな・・と反省することがあります。

(そのことに、教える場以外の場で気づかされたことがある。わたしの自己アピール圧力が強過ぎて、その場にいる別の(繊細な)人にとっては「キツかった」ということだった。)

「オラオラオラオラ、これだけ丁寧に説明してるんだからわかるでしょ? わかんないの!!!」

みたいな感じ。

(「オラオラ・・」は心の声ね)

そう迫られるととりあえず「わかりました」とその場をやり過ごす子もいるだろう。

どうやらわたしに懐いてくれてる子にかぎって、ホントはわかってないのに(あるいは理解が不十分なのに)「わかりました」と言い、答えを丸写ししてくる。

ま、よく言われるのは「わかった?」と言わないこと。「わかった?」と先生に問われると「わかりません」とは答えづらく「はい、わかりました」とニッコリするのがその場を丸く収めることになるから。

(自分が生徒の立場になったときでもそうするもんなぁ・・その場は「わかりました」で収めといて、帰ってから調べたりすることがある)。

そういう攻防もある。

「わかんなかったらわかんないと言っていいんだよ」と言ったところで、なかなか変わらないので、ここはきっとわかっていないだろうなと思うようなところをしつこく(意地悪に)何度も問いただしたりする。

かと思えば、わたしの押し付けがましい圧力を屁〜とも思わない(お下品な慣用句で失礼)図太い小学生もいるわけで・・。おもしろい&むずかしいものです。

あ、ちなみに、世間的な評価では「優しくて丁寧な先生」で通ってます。怒鳴ったりするようなことはない。

有名な概念なんでご存知の方も多いでしょうが・・「やる気を出す」ための動機付けには外発的(自分の外にある)と内発的(自分の中にある)があって・・。

外発的の例・・(この勉強をすれば)点が上がる、偏差値が上がる、順位が上がる、志望校に合格できる、先生が/親が褒めてくれる、お小遣いがもらえる(・・などなど)

内発的の例・・この勉強面白い!数学の難問が解けた!この物語/論説文/歴史(などなど)読んでて面白い!計算問題100個やり遂げた!この難しい概念理解できた自分がうれしい!(・・などなど)

例を並べるとお分かりでしょうが、内発的の方が断然効きます。

わたし自身、受験勉強という究極の外発的動機付けを伴った勉強ですら、自分が面白いと思わなくて嫌々やる勉強ってなかったような気がする。

面白くないけど(したくないけど)志望校合格のためには「しなきゃいけない」勉強なんて最悪ですよね。それだけ自分の人生の貴重な時間を盗まれてるとすら言える。そんなことを子どもたちに押しつけたくないものです。

         *

もちろん教えるときにもそのことを意識し、(この勉強そのものが)「面白い」「もっとやりたい」と思ってもらえるように工夫しているつもりです。(ただし先日にもそういうこと言ったかもしれないけど、本来の学習内容以外の部分で気を引くようなことはしません。学習内容に関わる面白いエピソードは話すけど、関係ないギャグは言わないなど。あ、もちろん勉強以外のことで生徒さん本人の生活や趣味などに関する話はしますが・・。)

ところが、教えるわたし本人が「面白い」と思ってることでも、生徒さんには全く面白くないことも多々あるのですね。先日もそういうことがあって、わたし「面白いでしょ?」生徒さん「面白くない!難しい」・・ぎゃふんでした。

「難しい」も快感なんだけどなぁ・・

学生時代、ヴィトゲンシュタインだっけか超むずかしい哲学書に出会ったとき、友だちにその本の文章見せて「ねえねえ難しいでしょ?全然わからんでしょ?」とか言って嬉々としていて呆れられたことがある。

理解することは二の次で、つまりは理解できる自分がかわいいのではなく、難しさそのものに恍惚とするのです。

・・あ、話がいらん方向に流れちゃった。

引き続き東京オリンピックは開催反対です。

それはともかく・・

『唐人街探偵 東京MISSION』日本人の大物俳優いっぱい出てるんだけど、特に浅野忠信とか、映画ではついぞ耳にしない(舞台では聞く)すごく強いテンションで台詞語ってた。映画そのもののめちゃ高いテンションに合わせてるんかなと思ってたけど・・。もひとつ仮説。中国語のテンションに日本語の発音を合わせたかな?と。

中国語は一音一音にアクセントあり強いテンションで発音する。だから、逆に、日本語を知らない中国人俳優が発音記号(or ローマ字)だけで日本語を発音すると一音一音が強すぎてすごく変に聞こえる。

で、あらためて日本語の発音を考えてみると、母音を適度に抜いて発音してんのね。例えば俳句の最初の五文字。「タタタタタ」と5拍子のリズムではなく「タ(トゥ)タ(トゥ)タ(・ン)」の3拍子(最後の休拍を入れると4拍子)で発音してるような気がする。しかも頭のタ以外のタは弱めに発音してるような・・。

でもこれって、近代以降の傾向かな?大昔はちゃんと全ての音をきちんと同じテンション同じ長さでゆっくり発音していたのかも? 世界的にしゃべり言葉って現代に近づくほど早くなってるらしいから・・。英語とかフランス語とかでもしゃべり言葉になると、元の文章のただしい発音からだいぶ省略・簡略してますよね。子音も変わるし。

若い店員さんの「あっざ(い)まー(す)」なんてあまりに頻繁に耳にするもんで、特に失礼だとも思わなくなっちゃった。ビジネスマンとかはちゃんと「ありがとうございます」と発音しなさいと教えられてるんだろけど。

海外の観光地で日本人観光客相手に発音記号(or ローマ字)だけで学んだと思しき「アリガトウゴザイマス」とか「ドウイタシマシテ」とかも、一音一音強くてやっぱり変に聞こえる。(子音ひとつひとつも強すぎるのかな?これはその人の母語によるのかも。)

でも、例えば、さるフランス映画の予告篇でジェーン・バーキンがフランス語風に「アリガト」と囁くように言う発音、めちゃいい感じやったな・・。なんでだろ?

発音については素人ですので、以上は素人の感想です。

 

外出するときに鍵持って出るのを忘れ、マンション前で誰かが出入りするのを待つ・・というのを何回やらかしたことか。
ハンカチ忘れて出るとか、どこかに置き忘れてくるとか、もうしょっちゅうで、前回の記事の「会議苦手」(=聴き下手)も、基本的にわたしがぼんやり屋さんだからね。もう子どもの頃から・・いつも、ぼーっとしている。なのにテストの成績だけは良い、という困った子でした。何かを読むとか集中するときは集中するんです。

道を歩きながら鞄から何かを取り出し、その拍子に何かがつられて落ちて、そのままなくしてしまう・・というのもしょっちゅう。冬だと手袋のたぐい、今だと日傘の「がわ」など。(「がわ」で通じます?関西弁やろか?なにかの外袋のたぐいをそう呼ぶのですが・・)。何か落として気付かずに通り過ぎようとしているとき、「落としましたよ おばさん/おじさん」、が呼び止めてくれるととてもありがたい。

こないだ(と言うてもだいぶ前になりますが)日傘のがわを落としたとき、すれ違いざまに「落としたよ〜」と見知らぬおじさんが声かけてくれた。

で、その翌日もやっぱり日傘のがわを落としたのだけど(何回やるんや?)、そのときはカップル連れの女の人の方が「落ちましたよ」と声かけてくれ、「あっ」と振り返ると、対向から歩いていた別の若い男性が拾って手渡してくれて、両方に「ありがとう」。みごとな連係プレーでした。

もっとみごとなのがあったな。これはもっと前。冬ごろ。
歩いてると、はるか先でおばあさんがこちらを振り返り「落としましたよ〜!」と大声をあげている。何やら財布のような(大切そうなもの)を拾ったらしきが見える。
おばあさんが、自転車でこちら側に走って来る男性に声かけたように見えたので、それを聞いたわたしより前方の自転車女性がわざわざ自転車降りて振り返り、その男性の背中に向かってまた「落としましたよ〜」と声をかける。
当の自転車男性は気づかず、わたしの横も通り過ぎて行くようなので、わたしも続いて「落としましたよ〜」と声をかける。ところがまだ気づかずどんどん行っちゃう。
わたしは、心配そうにまだ振り返っている自転車女性のところまで歩いて、もうはるか遠くを漕いでいく自転車男性の後ろ姿を見送りつつ「ああ、行っちゃったかな〜(ざんねん〜)」とか二人で言ってると(別に知り合いではありません)、なんと別の自転車男性がこちら側にスーッと戻って来て「すいませ〜ん」。最初のおばあさんのところまで行って声をかけている・・。
つまり、わたしと自転車女性は別の自転車男性に声かけていたのだけど、落とし物をした当の自転車男性はその声が耳に入って自分の落とし物に気づき、めでたく戻って来たということらしい。わたしと自転車女性、その勘違いに二人して気づき照れ笑いしつつ「ああ、よかったね」。

こんなふうにわたしも「落としましたよ」はよくやるけど、気づかずに通り過ぎて行った場合はもうほっとくことが多い。
ところがもっと親切な人がいた。これも冬ごろ、わたしが乗継駅で電車降りた時、電車の中にカード入れ(交通カードなどが入ってる)を落として来てしまった(コートのポケットから飛び出してしまったらしい)。
駅のホームにいるとわたしの背中をつんつんつつく人がいて、振り返るとさっきの電車で向かいに座ってた高校生ぐらいの男の子が、わたしのカード入れを拾って追いかけてきてくれたのでありました。
なんで「つんつん」だったかというと、わたしはそのときヘッドホンで音楽聴いていて、多分「落ちましたよ」の声が聞こえなかったんだな。わざわざ電車降りて追いかけてくれた人、本当にありがとう。

子どもたちが「先手先手」という言葉の意味を間違って覚えてしまうんじゃないか? 言うとくけど、いまの政府のコロナ対策すべて「後手後手」(ごてごて)ですからね。

これに限らず、いまの政府に関わる人たち(安倍以降が顕著かもしれないが)日本語を破壊していると思う・・。言葉をもっと大事に正確に使ってくれと思う・・。

で、やっぱり東京オリンピックは直前であっても期間中であっても「中止」一択だと思います。

      *

これだけじゃなんなんで・・

ZOOM授業にはやっと慣れてきたけど、ZOOM会議は相変わらず苦手だ〜。終わるとどっと疲れる。

で、あらためて考えてみると、ZOOMに限らずわたしって会議苦手だったわ。会社勤めのときでもね。

どんなふうに苦手かというと、「必要な情報」を聴き逃してしまったり、不正確に聞いてしまったりするのだ。

文書で書いてあるときには、ぱっと見で「必要な情報」を探し当てることができる。(これは文章読解にも通じるけど、読むことに長けた人は、ぱっと見で「重要な文章」に傍線を引くことができる。だから斜め読みとか速読とかもできる・・。自分がその能力あると思い込んでるのはただの思い上がりで、実は斜め読みしてても「自分の欲しい情報」にだけフォーカスしていて、それは筆者の意図とちがってるかもしれないけどね。)

つまり、わたしは視覚的に「文章を読む」能力はある程度あると思うのだが、聴覚的に「聴いて必要な情報を得る」力がどうも弱いらしいのだ。

具体的にはこんな感じ。喋る人が喋っている。ああ、どうでもいい前振りとか周辺語りを語ってはるわぁ〜→ぼーっと聞く。ああ、そんなもん配布資料読めばわかることを喋ったはるわぁ〜→ぼーっと聞く。そうやってぼーっと聞いていると、突然、聞き逃してはいけない情報がパッとやってくる。で、聞き逃す。あるいは誤解する。で、議論になったときなど的外れなことを言って場を混乱させてしまったり、必要な情報・重要な情報の欠けたまま動いて後々困ったりする。

で、自分がこんな感じなもんで、自分が語る立場になったとき(講義などでも)、聞くひとがちゃんと必要な情報を得て帰ってくれることを心がけていろいろ工夫します。まあ、どうでもいいことはできるだけ言わない。この辺はぼーっと聞いてていいよぉ〜の部分と、これだけは聞き逃さないでね、の部分のメリハリをつける。特に大事なところはポイントを板書したり、繰り返したり。繰り返します。しつこいほど繰り返す。

それでも、やっぱり、個人差はあるけどね。「こないだ、ここ大事なところやからしっかり覚えといてね、て言うたやん」なところを一週間できれいに忘れてる子とか・・。すごく注意深い聴き手だと、わたしが何の気なしにほろっと言うたことから、すごく大事なことを学んでくれることもあります。これは聞いた情報をちゃんと自分で解釈して、もっと豊かな情報に変化させてるんだね。語ったわたしがそこから学ぶことも多いです。

落語や演芸やラジオドラマなどの語り芸の場合は、「情報を得ること」が目的ではないから、ずーっと語り手の語りのリズムに身を任せて、その流れ全部を楽しめばいいんだけど、講義や会議の場合「必要な情報を得る」ことが第一義なので、そのつもりで語り、そのつもりで聞く必要があります。

予備校や塾の講師でこの語り芸がめちゃくちゃ上手い方がいて(わたしは残念ながらそういう能力はない。声がいいと褒められたことはあるけど・・)、そういう先生方の授業をあたかも芸を聞くように楽しんで、「ああ楽しかったな」「面白かったな」で帰ってしまって、学ぶべきことを学んでこなかった・・みたいな生徒さんたちが少なからずいます。これにはお気をつけて。

「緊急事態宣言下のオリンピック」て下手な映画のタイトルみたい。一般人には我慢を強いてオリンピックだけやるなんてなんやねん? 無観客であれなんであれ「テレビの中」だけは盛り上げて「こんなに頑張ったよ、えらいね」って誰に褒めてもらいたいねん? 間違ってるわ・・。IOCにしか中止の権限はないなんて馬鹿なことはあるはずない。日本は主権国家なんだし東京都は都下での開催を拒否する権限あるはず。「中止」を英断したらその方がカッコいいと思いますけどね・・。

       *

と、これだけではなんなので小ネタ。「可視化」という言葉を「見える化」に言い換えようみたいな闘いがあったんですかね? わたし自身はまったく記憶にないけど・・。ときどき「見える化」となってる文書を見ると気色悪いなぁと思います。「可視化」で十分わかるやん。可能の可に視力の視と〇〇化の化、漢字の意味もわかりやすいし、漢字はぱっと見ですぐ意味がわかるから便利。一歩ゆずれば、音にしたとき(耳から聞いたとき)漢語というのはわかりにくいよね。「カシカ」と発音されて「仮死化」かもしれないし「歌詞化」かもしれない「瑕疵化」だろうかとか思っちゃう? でもそんな時は和語(やまとことば)で言い換えればいいことであって、和語と漢語を変にくっつけた「見える化」みたいな言葉を使わんでも、「このことを目に見えるかたちにしてみると・・」みたいな言い方でいいんちゃう?(口頭発表などの場面を想定してます)。文書はともかく「可視化」でいいと思いますわ。

もう7月!一年も半分を過ぎてしまいましたね。更新が滞っててすみません。

そういう人多いと思うけど、コロナ禍に見舞われてからの1年半、「盗まれた日々」だと感じてぼーっと過ごすことが多かった。(お仕事は減ってるなりにやってますけど。ZOOMなどの遠隔指導も昨年ほどはないけど今年もぼちぼち・・)。ずっと授業がないとか、演習がないとか、調査研究が進まないとか、「俺の大学生活を返せ!」とか言ってる大学生見てると、本当に気の毒だと思うけど・・。

 

ま、なんとか生き延びるしかないね。ワクチンとか治療薬とかが出口へのきっかけになるのか? このタイミングでのオリンピックは本当にやめてほしいと思う。開きたいと意地になってるのは政治的思惑(「賭け」とやら)とがっぽり儲けたい(金儲けの機会を逃したくない)強欲だけでしょ。無観客とか言うてる場合か! 中止一択。

「安心安全」とやら空虚なスローガンの、現実の根拠となるはずの対策・システムの部分が次々とゆるゆるになっていくなか、なんとか開催はできたとしても、あとが恐ろしい。これから先、感染者がどれくらい出たとかクラスターが出たとか、そういう情報は極力隠されるか過小評価されるかして、感動のスポーツ物語だの日本にメダルラッシュだの(そりゃそうだ。その不公平にも気づくべき)、盛り上げる方の報道が席巻するんだと思う。どうぞみなさまそれに踊らされないで。小さいお子さんたちはぜったい感動物語好きだよね。その裏側も教えてあげてほしいと思います。東京の人たちはもちろんだけど、その他の地域の人たちも気をつけて・・。

 

いうてると豪雨で熱海が(あの美しい街が)酷い災害に見舞われていますね。どうぞみなさまお気をつけて。なんとか生き延びてください。

ここに書きたいこといろいろあるのだけど今日のエントリーはこのへんで。とりあえず復活しますということで・・。

例年2月、3月は、受験が終わった生徒さんから順々に卒業していくので、だんだん生徒さんが減っていく。

一人一人の受験の首尾を心配しながら、ああ今年も新しい生徒さんが入ってくれるのだろうか?と一方では不安が募る毎日なのですが・・。

今年はそれより何より、2年目に突入しつつあるコロナ禍がやっぱり心配ですな。まず受験を何事もなく無事に終えてほしい。ちゃんと悔いなく実力を発揮してほしい。うれしい結果も不本意な結果もあるだろうけど、どちらであっても、実り多い将来へつなげてほしい・・。そしてその先にある新しい学校生活。大学や大学院の授業にはまだまだ制限があると聞いている。2年連続リモート授業ばっかりという学生さんたちは気の毒だなぁ・・。

 

あと、営業的なことを申し上げておきますと、昨年度に引き続きリモート授業お引き受けします。SkypeでもFaceTimeでもZoomでも大丈夫です。

また、教室に来ていただくときは一対一の個別授業または一対三までの少人数授業のみお引き受けします。教室の空き時間に自習スペースとして使っていただくことはできますが、その場合も一人ないし三人までの同一グループでお願いしています。授業時も自習時も、基本的に見知らぬ他の生徒さんと同席していただくことはありません。

教室の換気や消毒、手指消毒などには最大限注意を払っております。

・・てなところで。

 

みなさまもくれぐれもご自愛ください。

「用いて」を「よういて」と読む生徒さん二人いる。一人は小学六年生、一人は大学受験生。「もちいて」と読むんだよと教えて、その場はちゃんと読めるようになっても、翌週になるとやっぱり「よういて」と読んでいる。意味がわかってれば読み方なんて気にしないんだろう。一度間違って覚え込んでしまったことがなかなか改まらない例でもあろう。でもこれって「もちいる」というれっきとしたやまとことばが消えていく例でもあるんじゃない?(と思うと淋しい。ほんまに子どもたちの語彙みてるとやまとことばがどんどん消えてることを感じる・・)。

しかし「よういる」も、もっと広まってるんですかね? 「ちがくて」という、何度聞いても背筋がゾッとするような例と同じくこれから定着していくんでしょか?

「見れる」「食べれる」は文法的整合性もあるし利便性もあるしで、許してもええんちゃんと思うけど(しかしやっぱり少し頭悪く聞こえるけど)、「ちがくて」「よういて」はよう許さんなぁ・・。

といいつつ、当エントリーでも、先のエントリーでも、関西弁ベースのしゃべり言葉をどんどん用いている(←もちいている)わたしなのですが・・。

聞いて「気色悪い」という感覚はなかなか取れんなぁ・・。