ちょと小論文の話からはずれます。

 

「悪に対して正義の鉄槌を下す」のは実際に脳内に快感物質が放たれてかなりの快感らしい。という研究結果があるそうです。

そこまでいかなくても「無知の人に教えてやる」快感てのは確かにあると思う。女たちに「教えてあげる」おじさんの跳梁跋扈を見ればわかるではないか。女は無知だと決めつけ「教えてあげる」ことで尊敬されたがる男たち。わたしもよく被害に遭いました(笑)。初対面の人とおしゃべりしてるうち相手よりもこちらの方が知識量において勝っているのが徐々に明らかになると、「女の癖に異様にもの知ってる」「お前何もんなんや?」とか訳のわからない非難をされたこともありました(笑)。

いや、それはともかく。

 

わたしも無知な若い衆(性別問わず)に「教えてあげるばーさん」やることは快感であることは重々わかっています。ので、自戒せんといかんなとは重々承知しているのですが・・・。

それにしても、若い衆らよ、知らなさ過ぎへんか?と感じることもしばしばあります。

 

今日は防災の日で携帯スマホがある時刻になると一斉に鳴りました。

(たまたまその時間帯に映画館に行ってた筆者は「何時何分になると市から防災アラートが発せられマナーモードでも携帯鳴りますから電源切っておいてください」と念押しされました。わたしのスマホはそれでも鳴らないように設定してあるけど念のため電源切ったけどそれでも映画館内鳴らしてる人何人かいたな。

 

それはともかく。「防災の日」て何の日ですか?

関東大震災が起こった日なんですよ。

そのとき起こった朝鮮人虐殺を「なかったことにしよう」とする向きがあることに恐怖を覚えます。

「歴史的評価が定まってない」だの「政府の公式記録がない」だの。果ては「流言蜚語の典型とされてること(朝鮮人が井戸に毒入れてまわってるとか)は事実だったのだ!」だの。(最後のはホントに酷いです。ひどすぎる)

え、そうなの?と思った人たち。

うまうまと乗せられた人たち。

それって無知につけこまれてるんですよ。わかってますか? 若い衆らよ。(若い衆には限らないかもしれないが。いわゆるネトウヨさんは年配の人が多いとも聞くし)

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小論文講師の方のなかにはどうやったって書けない子にはテーマごとにこう書いてくださいねと定型文を教えてしまう向きもあるらしい。そりゃあ採点する側が金太郎飴というはずだわ・・。おんなじようなのを何枚も何枚も見せられるのはさぞかしうんざりすることだろう。

よくある小論文の構成はこう書きましょうというのも、似たような答案を大量生産する元凶だと思うが、例えば「起承転結」とか元々は唐の(昔の中国の)絶句(四行で構成された詩)の一行一行を「起句・承句・転句・結句」と呼んだことから来てるので、そりゃ四行詩の構成としてなら、また四コママンガとか物語とかの構成としてなら、いい感じになることはわかる。でも論文構成としては「転」のところでひっくり返ってしまうことが多いのよね。いや無理やりその四段構成にあてはめようとすることもできるけど・・。

わたしは序論・本論・結論の三段構成を「一番書きやすくて整いやすいよ」と言って教えますが「でもこの構成にこだわることないからね」と必ず付け加える。自由に書けばいいんです。どういう構成でなければならない、とか、こういうときは必ずこうするとか、こういうことは書いてはならないとか、なんだか変なルールが小論文指導界には飛びかってて、「なんでこう書いたの?」と聞くと「先生が〜は必ず〜しなさいと教えてくれました」と。学校の国語の先生らしいけど。思わず大きな声で「そんなバカなことはありません」と言ってしまった。なんでそういう変なルールが横行するのか・・。

「自分の体験を書いてはいけません、あくまで客観的に書くように」と教えられたという子もいたな。いや、自分の体験は積極的に書いてください。そんなユニークな体験してへんし、と思うかもしれないが、自分の経験になんらかの「価値」を見出すこともひとつの人生勉強だからね。

小学生の作文が「ぼくは」「私は」で始まるのはわかるのよ。「ぼくは」「私は」の意識がしっかりしてきて何かと「私は」「僕は」を主張したがるお年頃だもんね。
「ぼくは前の日曜日お父さんとお母さんと一緒にUSJに行きました。」
いいね。いかにも小学生らしい作文です(笑)。
でもこれを高校生にもなってやってる子にはイラッとくるのよ。
高校生にもなって、いろんな日本語の文章読んだあとなら、日本語は主語が明らかな場合は省いてもいいし、そのほうが引き締まったかっこいい文章になる場合もあるってことくらい学んでほしい。
「先週の日曜日、両親を伴ってUSJに行った。」
「日曜日、USJに行った。父と母が一緒だった。」とかね。
(高校生にもなると両親連れでは行かんやろというツッコミはなしね)。
念押しておきますと小論文や志望理由書では特に「かっこいい」文章は求められないので、「私は」があっても減点になることはないとおもう。でもきっと全体の印象はちがってくるかな。・・よく言われることで現場の採点でどうかは定かではないのだが、誤字や用事用語の間違いなどは、そのぶん減点になるのはもちろんだけど、全体の印象として「この子はバカだ」と思われてしまうので絶対に気をつけるように・・と。まあそれは大人の世界でもあるもんね。簡単な熟語や文法を知らなくてバカをさらす政治家はアメリカにも日本にもいる。ビジネスやと厳禁やし。

話がずれた。「主語述語の整った文章を書きなさい。」と指導する先生。本気でそう信じてますか?
よく、言葉の意味を理解しているかどうかを確かめる例文問題で「〇〇という言葉を用いて主語述語の整った文を書きなさい」というのがあるけど、そのルールで書かせると言葉の意味がわかってんのかわかってないのかわからん例文もできてしまう。こういうのを書く子が(ほんとに)いるのだよ。
「私は躊躇した」「私は遊説した」「私は洗練した」
最後のはこういう使い方しないんでダメとわかるけど、最初の二文は主語述語ちゃんとあって文章としてもおかしくないやん。でもこれ書いた子がほんまにこの言葉を理解してるかどうか判断つかへんやん。こういうのどう採点されるんでしょね?
「躊躇した」はむしろ「私は」なんて主語を省いて「躊躇した」の前に何か言葉を補えば良い例文になる。「遊説した」は「私は」の代わりに適切な主語を置くことで良い例文になろう。(もちろん名詞として使った例文でも良いけれど)。「私は」とか小学生が書くと、あんた遊説したんかーい!いつどこで?なんでまた?とかツッコみたくなる(笑)。
そもそも「は」は主語を導く助詞ですらない。これは文法学者揃って否定してるはず。主語を導く格助詞は「が」もしくは「の」です。「は」は係助詞(もしくは副助詞)扱いでたまたま主語につながる場合もあるけど、基本的には「話題を提示する」「特に区別する」役割だもんね。(「は」の役割、意味には諸説ありここでは深入りしませんが)。
「私は高校3年間注力した活動は〇〇でした。」
「私は高校3年間注力した活動が〇〇でした。」
文法的に正しいけどやっぱり「私は」要らんでしょ。
「私が高校3年間注力した活動は〇〇でした。」
「高校3年間注力した活動は〇〇でした」
こうなるとどっちでもいいけど、わたしはやっぱ「私が」抜きのほうが好みかな。
(↑このときの「わたしは」は要る)

今年の夏休みは特に「小論文見てください」「志望理由書見てください」の依頼が多かったかな。

AO入試やら推薦入試やらいろんな形式の入試が増えてくるとこういうニーズが多くなってくるんだろう。

「どれどれ」と書いてきたものを見せていただくとですね。

「私は」で始まるやつが多くて(それこそ)わたしは、あたまのなかで結構ブチギレる。

 

ツイッター(Xか)に思わず

 「私は」で始まる小論文・志望理由書の類を見るとイラッとくる。

   わたしが採点官なら残らず落とす。

みたいな投稿してしまって、後から考えてみると「私は」で始めないといけないケースもあるんで言い過ぎかなとは思いましたが・・・

 

「私は高校3年間〇〇に打ち込みました。」

この「私は」はなくていいんじゃない?

「高校3年間〇〇に打ち込んだ。」

のほうがかっこいいじゃない?

とか優しく赤を入れると、生徒さんによっては

「主語と述語の整った文章を書きなさいと先生に言われました」と抵抗する。

「そんな先生は地獄に堕ちろ」

と(その子には言わず)ツイート(Xか)したけど、これも極論です(笑)。本気にとらないでね。

実際にはここに「私は」があっても決して減点になったりしないから、わたしの言うことを信じないように(笑)。

 

ちょっとこの話続けます。

「責務を全うする」って鬼滅用語だったのね〜。てことを小学生の生徒さんから教えられた。

マンガは読んでないけどテレビアニメも映画も観たことあったのに。

「全集中」とか特殊な言葉は印象に残るけど、「責務を全うする」とか普通の言葉なんで特に気に留めていなかった。小学生あたりだとその難しい言い回しがしっかり記憶に残るわけか・・(エッ、大人の人たちも?)

こんな〇〇は嫌だ

と言われてしまいそうですが・・・

 

授業で物語を読みながら泣いてしまう 塾の先生 は、わたしです。

 

昨日ひさびさやってしまった・・。

生徒さんたちはきょとん。

昔から涙腺弱くて『フランダースの犬』(アニメではなく本ね)のラストなど必ず泣いていたもんなぁ・・。

 

高校教材のような複雑な小説ではそれほどストレートに感情を揺り動かされないので、小学生中学生向けの児童文学や童話でこうなることがよくあります。

 

 

抽象的な言葉ばっかり操ってて難しい(読みにくい)文章を読む場合、よく指導するのが「ここで抽象論で言ってることを具体的な例にすればどういうことかを考えて」ということ。もちろん抽象的な概念のまま読み進めていくことのできる人もいるけど(数学が得意な人に多い。灘中の難しい算数問題解けるような?)、わたし自身、いちいち具体例にすればどういうことかな?と頭の中で変換しながら読むことが多いから。(もちろんそうすることによって読み違えてしまうこともありうるけど)。筆者が抽象論を述べてから具体例を出してくれてると読みやすいんだけどね。(あるいは具体例を述べてからそれをまとめて抽象化・一般化してくれてると)

ところが、この「具体的に考えるとどういうことだろう?」が苦手な人がいる。で、どうやら、そういう人は、具体的なことを抽象化する作業も苦手らしい。・・ということに気がついた。そういう人は、小学生にも大学受験生にも大人にもいるようです。

そりゃあ具体を抽象にすることが難しければ、抽象を具体にするのも難しいよなぁ・・。では、どうすればいいのか? 普段日常生活の中にごろごろしている具体的な物事を一般化・抽象化して考えてみる・・これを鍛えるには? どうすればいいのかなぁ・・思考実験か議論か・・自分がどうしてきたかを考えると、やっぱり本など読んで、(つまり人の文章を読んで)(あるいは聞いて)一般化・抽象化はこのようにするんだということを徐々に学んで来たような気がするが・・。

今でも思い出すことのある遥か昔に犯した痛恨のミス。当時出講していた塾のカリキュラムに従って、古文は古典文法をまず仕上げ、それから読解という順序で教えていた。そんなあるとき生徒さんの一人が曰く「先生、文法覚えて単語覚えれば、古文読めるようになる?」。わたし、内心「なるわけねーだろ」と思いつつ、「うん、ある程度はね」みたいな答えで誤魔化した。(雇われ講師としてはカリキュラムがそうなってんだから仕方ないだろと自分も誤魔化しつつ・・)。そして、いざ読解の授業が始まったとき、もう、みごとに、その子の気持ちが離れていくことがわかりましたね。そりゃそうだ。だって読めないんだもん。

今は「まず文法仕上げてから」ではなく、むしろどんどん古文を読ませます。その中で「これは文法的に解説するとね・・」のやりかたで理解してもらいます。

中学高校と文法を学んで来た子ならともかく、特に受験で必要になって慌てて古文を学び始めたみたいな人は、(またそのなかでも比較的年齢の高い人は)、文法から始めると、そもそもなぜそんなことを覚えないといけないかがわからない。用言の活用? そもそも活用表の読み方に慣れないし、たくさんの種類の活用を覚えて何の役に立つのかわからない。現代語(今の口語)との違いを説明して何とか理解してもらおうとするのだけど、理解すら覚束ないこともある。

だってふだん母国語使ってて、文法を考えながら喋る人なんて皆無だもんね。品詞分解するとどうなる?なんてマニアでないと考えないし。せいぜい「あれ?この言い方ちょっとおかしいかな。こっちの言い方の方がいいな」みたいな違和感で感じるぐらいだろうけど、それも、前者の言い方がおかしくて後者の言い方の方がいいということを文法的に説明して、っていわれると言えない人の方が多いだろう。「なんとなく」。でもその「なんとなく」の感じの方が、わたしは大事だと思うんですけどね。「なんとなく」の語感持ってると、文法事項を必死に丸覚えしなくっても、できるときはできるもんなんです。

文法の面白さってのは、そんなふうに普段全く意識しないで使ってる母国語の中に、なんとすごくよくできた規則があることを発見していくことなんですよね。文法を教えこむ前のごくごく小さな子どもに「書かない、書きます、書く、書けば、書け!、書こう」おお!「かきくけこ」が出てきたねえ!「走らない、走ります、走る、走れば、走れ!、走ろう」おお!こんどは「らりるれろ」だ!・・とかいう話をすると、目を輝かせるもん。そういうところから文法にハマり、文法マニアになっていく子もいっぱいいます。そういう人は外国語学んでも文法マニアになる?そういう友達もいっぱいいます。(生憎わたしはそうではないけど・・)。

まず文法を頭から丸覚えして・・というやり方は文法嫌い、文法アレルギーをつくるだけだと思いますけどね。外国語学習でも。

 

ちょうど昨日の今日なんですが、姫路の兵庫県立歴史博物館というところで開催中の「唱歌!西洋音楽がやって来た―明治の音楽と社会―」という展覧会に行くと、なんとこういうモノが・・

その昔、大日本帝国憲法の条文を子どもたちに歌って覚えさせたというんですな・・。

聞いてみたーい!

そうか、この手があったか。日本国憲法も歌って覚えるとか? うーんしかしどういうメロディに乗せて?

既にそういう試みをやっていらっしゃる向きがあるなら、教えてくださいませ。

そういえば、棒暗記のコツとして「歌に乗せて覚える」というのもあった。

キリスト教プロテスタント系の中高一貫校に通ってたわたしは、旧約聖書、新約聖書の全巻を「鉄道唱歌」のメロディに乗せて覚えさせられたものでした。「創・出・レビ・民・申命記、ヨシュア・士師・ルツ・サム・列王、・・」「マタイ・マコ・ルカ・ヨハネ伝、・・」おんなじ経験をお持ちの方々もいらっしゃるのでは? 実はいまでも(キリスト教)ミッション系の学校ではこういうことやってるらしいのですが、学校によるのか?世代の違いか?メロディが異なるようです。

あれか。神武天皇から始まって天皇の名前を全て覚えていくとか・・これは外国語でも聞いたことある。アメリカ大統領を初代から全て覚えるとか? イギリスの王朝とかでもあったかなぁ・・。

教育勅語も戦前戦中子どもだった人は一字一句覚えているという。百人一首は(あるいは方丈記とか平家物語とか枕草子とかの冒頭は)いまでも子どもに覚えさせたりしますよね。調子の良い節回しに乗せて覚えると覚えるという例か・・。

丸覚えしている時点では意味わからず覚えてるんですが、あとになって古典文法の語感が身につく助けになりますよね。いま持ってる生徒さんでも、文法的に説明してと言うとトンチンカンなことばっかり言うてはるのに、語感だけで助動詞問題正解してしまう子がいて、聞いてみると小学校の頃にいろんな古典を暗唱させられたんだそうです。その語感を大事にしてね、と言うてます。

ますます感染状況悪化しているなかでの新学期。さぞかし不安なことと思います。国や教育委員会ができなきゃ学校がちゃんと対策してほしいし、じゃなきゃ保護者・子どもが自衛してほしい。デルタ株どころか(国が隠蔽していた)ラムダ株も市中感染しているんじゃないかとの説もあるし、感染力の強いウィルスは満員電車などでの感染も疑われているし、親であれ子どもであれ家に持ち込んだウィルスで一家感染、自宅療養という名の自宅放置の目に遭いませぬよう・・くれぐれもお気をつけて・・。

・・と、これだけじゃなんなんで・・。

社会科教えてて、歴史や地理はいろいろエピソードを語り物語を語り絵や写真を見せながら楽しく教えることができる(教わる方も楽しいと思う。教える側よりよく知ってる子も多いし、どこかのツボだけ呆れるほど詳しく知ってる子も多いし)けど、教えにくいのは公民分野。ほかの先生に聞いても、自分の小学・中学時代を思い出しても、けっきょく「棒暗記するしかない」になってしまう。

で、「先生、語呂合わせ教えてください」になるんだけど、私、自分が語呂合わせ暗記方式嫌いなので、あんまり知らないのよね。794ウグイス平安京とか1192つくろう鎌倉幕府とか、ほんまにみんなが知ってる古典的なやつしか知らない。

本当は棒暗記でなく、国政の仕組みにしても、日本国憲法にしても、一つ一つの言葉の意味、そして三権分立にせよ、二院制にせよ、日本国憲法の三原則や重要な条文にせよ、こうなっている歴史的経緯や思想的背景をちゃんと理解しないと何にもならないんじゃないの? 小学生のうちなんて、面倒な(紛らわしい)用語や数字を丸暗記させるんじゃなくて、歴史的・思想的背景を教えるだけでいいんじゃないのとも思う。もっと大きくなって、普段からちゃんと政治・経済・社会のニュースを目にしているなら、自分たちが生きている社会のことをいろいろ考えながら、関連づけながら覚えていけると思うけど。

・・と言いつつ、いろいろ具体的イメージを持ってもらいながら、いろんなニュースやできごとと関連させながら、なんとか理解してもらおうとしていますけど。

特に苦労するのが労働三権とか。だって、そもそも団交とかストライキとかニュースにならないもん。春闘で毎年鉄道ストがあった時代を覚えている世代としては・・。で、小学生に対しては「社長さんに対して一人のヒラ社員が対等にお話しすることは普通できないでしょ」みたいな話から始めるんだけど、そもそも「先生(や上に立つ人)の言うことにはおとなしく従いましょう」と教えられ、それを内面化しているらしい子どもさんらには、労働者が経営陣に楯突くという事態をそもそも想像しにくいみたいで・・。例えばプラカード掲げてデモしている人たちとか、基地の前で座り込みしている人たちとかは、ただ単にお国のすることに刃向かっている過激な人たち・・としか映らないのかなぁ・・と恐ろしくもなる。そうならないためにも、ふだんから社会のいろんなできごとについて、ご家庭でお話し合いしてほしいなあとも思いますが。

労働者は必要な時だけ最小コストで効率良く使い、要らなくなったら即首切りできる方がいい、だから正社員なんて要らない、という竹中某とか維新とか(おかげで大阪の公務員、また大阪府民・大阪市民はエラい目に遭ってますが)、そういう新自由主義的な考え方を子どもたちには内面化して欲しくないと思います。切に。(保護者さんがそう考えてたら仕方ないって?うーん・・)