横須賀散策の一番の目的地に行って来ました。 神奈川県横須賀市沖に位置する「猿島」。東京湾唯一の自然島であり、湾内で最大の無人島なのだそうですよ。幕末から第ニ次世界大戦まで、東京湾を防衛していたそうなのです。
とにかく話が長~いので、興味がない方は飽きちゃうからスル~してくださいね。本当に長い・・・(笑)
まずは 猿島へ向かう前に、まずは三笠ターミナルでチケットを購入
午前9時30分発の1番目の乗船チケットを購入する時なのですが当日チケット購入には8時の時点で、ワンサカワンサカいて大渋滞。そこで、スタッフの方が笠ターミナルでチケットを購入するより、ネット購入した方が早く手に入るということで、早速携帯をピッピッピと・・・
定員オーバーになる前にチケットゲットです
新三笠桟橋
横須賀市にある猿島(さるしま)行きの船が発着する桟橋でなのです。
長年使用されてきた旧三笠桟橋は、築48年が経過し、経年劣化や海水による影響で橋を支える杭や足場部分の老朽化が進んでしまい、2017年9月から建て替え工事が行われ、2018年3月に工事が完了し、新三笠桟橋として生まれ変わったそうなのです。
さて、今回乗船する船は・・・
ニュークロフネ
2024年4月17日に就航した猿島航路の新しい観光船で、無人島・猿島の豊かな自然と歴史的文化財をイメージした斬新なデザインが特徴で、2024年度グッドデザイン賞ベスト100を受賞したそうです。全長20.90m、全幅7.10m、総トン数19トン、定員236名のアルミ製双胴船です。船体は黒く塗られ、「新時代の黒船」として横須賀の新たな観光名物にしたいようですよ。
いざ乗船・・・
さてさて、ワクワク感が・・・
新三笠桟橋の隣には戦艦三笠が見えます。
いざ出発!
まもなく待ちに待った猿島です。
船の乗船時間は約10分、猿島桟橋に到着しま~す
さぁ、上陸ですよ!右側の砂浜では釣りやバーベキューをやっていましたよ。
ようこそ、猿島へ・・・
そうそう、猿島って軍事要塞になる前から日蓮上人に関するいくつかの伝説が残されているそうなのです。。この伝説は、猿島が現在の名前で呼ばれるようになった由来のひとつとも言われていいるようですよ。
1253年(建長5年)、日蓮が安房の国から鎌倉へ布教に向かう途中、船は嵐に遭い座礁しかけました。船底に穴が開き浸水が始まった際、日蓮が題目を唱えると不思議なことに浸水が止まりました(諸説あり、アワビが穴を塞いだとも言われています)。しかし嵐は収まらず、船は猿島(当時は豊島と呼ばれていました)に漂着しました。
白猿は猿島にいないので、写真お借りしました。<(_ _)>
島にたどり着いた日蓮の前に白い猿が現れ、陸地の方を指し示しました。日蓮は、これは猿島から出て陸へ向かえという導きだと感じ、再び船で海を渡りました。この白い猿にちなんで、島が「猿島」と呼ばれるようになったと伝えられています。
日蓮上人
鎌倉時代中期に活躍した僧で、今日の日蓮宗の開祖にあたる人物。貞応元年(1222)、安房(現、千葉県)に生まれた日蓮は、鎌倉・京都などで修行を積み、建長5年(1253年)、故郷に帰って、法華経信仰の布教を始め、その布教の姿勢が、純粋に釈尊の教えを求めようとするものであったため、他の宗派との間に軋轢を生じたそうです。また『立正安国論』に代表されるような幕政批判を行ったことで、鎌倉幕府から激しい弾圧を受けました。しかし、日蓮聖人は不屈の精神でこれを乗り切り、自らの主張を貫き通しました。弘安5年(1282)、日蓮聖人は61歳の波乱に満ちた生涯を終えます

これが島内マップ
猿島は、面積約0.055平方キロメートル、周囲約1.6キロメートル、最高標高39.3メートルの島です。横須賀市平成町から北東へ約1.15キロメートル、三笠公園からは東へ約1.75キロメートル沖合に位置しています。
そして砂浜には・・・
海軍港碑
1877(明治10)年、横須賀港が海軍港に指定され、猿島は海軍省の管理下になった記念碑
猿島が軍事的な役割を担い始めたのは、1847年の江戸時代末期。
当時、江戸幕府は外国船の来航に備え、東京湾の防備を強化する必要がありました。猿島に砲台(台場)が築かれたのは、異国船の脅威に対抗するためで、東京湾に進入する外国艦隊を防ぐための重要な防衛拠点として機能しました。砲台には15基の大砲が設置され、当時の江戸の守りを固めるための戦略的な要素を持っていました。
マシュー・カルブレイス・ペリー提督
1853年にペリー艦隊が猿島沖に停泊した際、猿島は「ペリーアイランド」とも一時的に命名されるなど、その存在は国際的にも注目されました。また、1855年の「安政江戸地震」では台場に大きな被害が出たため、江戸幕府は猿島台場を一時放棄することとなったのです。
明治時代に入ると、猿島の軍事的重要性がさらに高まり、1877年から1884年にかけて、猿島は東京湾の防衛拠点として本格的に整備されました。陸軍によって砲台が再設置され、弾薬庫や兵舎、トンネルなどが建設されました。猿島要塞は、横須賀港の防衛だけでなく、東京湾全体の防衛の一環として重要な役割を果たしていました。さらに、明治時代後半には観測所や電灯所などが追加され、防衛機能が強化されました。
B29爆撃機
第二次世界大戦中、猿島は旧日本軍の要塞として再び使用されました。この期間中、猿島には防空砲台が設置され、東京湾を防衛するための拠点となりました。具体的には、「8cm高角砲」や「12.7cm連装高角砲」が配置され、また探照灯などの装備も設置されましたが、アメリカのB29爆撃機に対する効果はほとんどありませんでした。戦後、1945年に猿島はアメリカ軍に接収されました。その後、猿島は防衛要塞としての機能を徐々に失い、1961年に日本に返還されました。

終戦まで日本軍の防衛の拠点として使われた後、一般開放が開始。立ち入り禁止期間が長かったため、現在でも手付かずの自然が残されているんですよ。
ということで、1995年に横須賀市によって「猿島公園」として整備され、観光地として夏季には海水浴やバーベキューなどのレジャーが楽しめ、四季を通じて釣りやハイキングが出来る島になったのです。2015年には国史跡、2016年には日本遺産にも認定されたんですよ。
さぁて、探検・・・
島内MAP
電気灯機関舎
1895年(明治28年)に建てられたレンガ積みの小屋と煙突。明治時代は石炭を使った火力発電所。猿島山頂に据え付けた「サーチライト」用の電気を作っていたそうです。そうそう、強力な光線を特定の方向に投射する照明器具で、「探照灯」とも呼ばれます。主に高輝度光源と反射鏡を組み合わせ、遠方を明るく照らす性能があるそうです。
緩やかな上り坂を歩いて行きます
この坂道を登っていくと途中から期の歩道になっており、壁に銃弾の跡がのこっているんですよ。終戦を迎えた1945年(昭和20年)8月30日に連合軍が猿島に上陸するのを海岸で待っていたのは、竹に白布を括り付けた3名の兵士だったといいます。この銃弾の後は、見通しの良くないこのコーナーで、日本兵が潜んでいないか警戒して威嚇射撃した跡なのだそうですよ。やっぱり怖いですよね日本がポツダム宣言を受諾して連合国軍の日本進駐が始まった1945年8月30日、猿島には連合国軍のイギリス兵数十人が「武装解除」のため上陸しました。そして40~50名のイギリス軍兵士が上陸し、武装解除となったのです。
兵舎
この兵舎はフランス積みのレンガ。兵舎は当時、「棲息掩蔽部(せいそくえんぺいぶ)」と呼ばれており、砲撃などの攻撃から防御するために造られた地下施設なのです。終戦間際の1944年には、70人ほどの兵士が島内の3つの兵舎に分かれて生活していたと言われています。
兵舎の前でアーティストにちょっと小太郎を描いて頂きました・・・(笑)
木の歩道を歩いて行くと左にトイレ、右に弾薬庫が見えてきました
猿島の中央部を南北に走っている「塁道(るいどう)」と呼ばれる露天掘りの空間です。明治時代に服役囚まで動員して掘ったとも言われる「切り通し」と呼ばれる通路。 道幅4m~5m、壁の高さは4m~10メートル、総延長約350mとかなりの長さ。岩とレンガと緑の葉に覆われた非日常的な空間で、塁道の両側には軍の施設が海から見えないように造られたそうです。
現在は観光客が歩きやすいように設置されている「木の歩道」。戦時中は違い、木道の一部を開けて戦時中の道が見えるようにしてあるけれど、通路幅が狭いからちょっと歩きにくいよ・・・(笑)
さぁ、愛のトンネルに入ってみますよ・・・ハハハハハ
相方と暗いからと手を取り合う・・・無いない・・・(笑)
このトンネルもフランス積みで1887年(明治20年)以前の建築物に用いられた積み方らしいので大変貴重な遺構だそうですよ。
このトンネル内は砲台地下施設だったようですよ。
さぁ、トンネルを抜けました。
右側が愛のトンネルで、2025年11月4日~2026年二月まで整備作業の実施に伴い通れない部分があるとのことで、左側のトンネルが閉鎖されるんですよ。
実は閉鎖前に行ったのですがこのトンネルは通りませんでした・・・
さぁて、愛のトンネルを抜けて左側にある、これまた弾薬庫に向かいますよ。
第一砲台の砲側弾薬庫なのですが、なぜか壁がなく貫通しているのですよ・・・
猿島に置かれた陸軍の砲台は1925年(大正14年)に廃止され、これに伴い猿島の軍用地は陸軍から海軍に移管されたそうなのです。その後、海軍は第一砲台前方に八糎高角砲を4門を配置する際の工事の時に通路を確保すべく弾薬庫の壁を取り壊したそうなそうなのですね。
弾薬庫を抜けた先にはMAPがあり、左:日蓮洞窟、右:展望台の矢印がありますが、当時は日蓮洞窟は立ち入り禁止になっていました。なんでも立ち入り禁止になっている理由は、2017年11月の土砂崩れが起きたそうで、日蓮洞窟へと下りる唯一の階段が封鎖され、洞窟への立ち入りが不可能となったのだそうです。安全確保のため立ち入り禁止措置が継続されてるそうなのです。それでも日蓮洞窟方面には昭和期の高角砲座を観ることができるので、まずはそこを見に行きました。八糎高角砲の砲座が良好な状態で残っているのは全国的にも珍しいそうですよ。

レンガの「トンネル」を抜けると、やっと東京湾を望むことができます。
この猿島ですが、明治時代に「陸軍省」の所管となり、「陸軍」が東京湾に侵入してくる外国艦船を追い払うためにカノン砲という大砲を6門、東京湾に向けて据え付けました。
「海軍」は、日中戦争1年前の1936年(昭和11年)、航空機を打ち落とすために「高角砲」の台座建設に取り掛かりました。戦争の流れは「艦船」から「航空機」に移っていきました。「高角砲」は海軍用語で、陸軍では「高射砲」と呼んでいましたが、役割は同じ、対空砲です。海軍は8センチ高角砲を4基設置したのです。
8センチ高角砲
高角砲は、飛んでくる航空機を迎え撃つことを目的として開発されました。
高角砲は、航空機を直撃することよりも、砲弾を航空機の手前で爆発させて、その破片や爆風で損傷を与えることが主な役割でした。
8センチ高角砲座
良い眺めです。
日本本土が米軍機による空襲を受けるようになって分かったのは「B29爆撃機」が「高度1万メートル」を飛行するのに対して、「8センチ高角砲」は「6000メートル」ほどしか飛ばないことでした。
ここも8センチ高角砲座
砲台跡前で・・・
また引き返してオイモノ鼻広場へと向かいます。
広場に行くには結構下らなくてはなりません・・・![]()
![]()
![]()
東京湾を一望できる絶好のビューポイントかもね
オイモノ鼻広場
猿島の展望台エリアで、海に向かって広がる景観が素晴らしいスポット。ここからは、横須賀や横浜、さらには房総半島まで一望でき、猿島の戦略的な位置を実感することができます。また、広場には岩場があり、磯遊びができるそうですよ。
向こうに見えるのが房総半島でしょうかね・・・
「卯ノ崎台場」と呼ばれる幕末に築かれた台場(砲台)の跡があったとされています。
さらに階段を下りるとオイモノ鼻先に行けるようですが、小太郎の膝にちょいと支障が出まして痛み止めと湿布を張る羽目になったので、下りるのを遠慮しました・・・ハハハハハ
さぁて、またまた階段を上りましてMAPの脇には・・・
8センチ高角砲座
8センチ高角砲の台座にはボルトで止められた跡が生々しく残っています。
今度は展望台に向かうために下っていきますよ・・・
このトンネルが11月4日から閉鎖になったトンネルですよ・・・
って今度はまた上りに・・・
アップダウンはキツイぜよ・・・(笑)
「108段の階段」の上に、展望台があります。
階段を上りきると展望台が見えてきました。現在は立ち入り禁止、劣化が激しいからなのですかね?
防空指揮所跡
陸地の方の中央付近に三角の形が見えませんか?展望台から見える高層マンションのような施設は、 在日米海軍横須賀基地ですよ。
12.7センチ高角砲砲座跡
敗戦色が濃厚になった1944年11月から「12.7センチ高角砲」の砲座の建設が始まりました。

口径が「12.7センチ」は、その砲弾は一升瓶よりひと回り大きなサイズで、重さは約23キロあったそうです。この砲弾であれば、高度1万メートル近くまで飛ぶ、と期待されたのですが、やくにたたなかったようです。そうそう、砲座を囲む砲弾室と思われるコンクリートの壁には、「貝殻」がたくさん混じっています。急いで砲座を造る必要があったうえ、資材不足も手伝って海岸の砂が使われたようです。最期のあがきといってもも過言ではないですよね。
桟橋に戻ってきましたよ。
終戦を迎えた1945年(昭和20年)。8月30日に連合軍が猿島に上陸するのを海岸で待っていたのは、竹に白布を括り付けた3名の兵士だったといいます。日本がポツダム宣言を受諾して連合国軍の日本進駐が始まった1945年8月30日、猿島には連合国軍のイギリス兵数十人が「武装解除」のため上陸しました。そして40~50名のイギリス軍兵士が上陸し、武装解除となったのです。島の一部は、機雷に反応しないように不必要な磁気を船体から除く「消磁ステーション」として米軍に接収されました(返還は1961年)。戦争中は軍の持ち物だった猿島ですが、戦後は国のものに。ところが、もろもろの事情により1993(平成5)年に航路は廃止され、再び島は立ち入り禁止となってしまったのですしかし、「島に行きたい!」「泳ぎたい!」「釣りたい!」という声が殺到。そこで1995年(平成7年)年、横須賀市が国から管理委託を受け(その後無償譲与)、散策路などを整備。東京湾に浮かぶ都市公園として蘇ったそうです。
2022年には、たくさんの皆さまにご支援いただいた「猿島エコステーション」も完成。
“環境に優しい観光と学びの島”として新たなスタートを切ったそうですよ。

































































































































































