「備えあれば憂いなし」は真理に違いない。しかしながら、では何処まで備えれば「不安」を脱し「安心」に達するのか、というハナシで・・・
米国・イスラエルとイランとの「戦争」は、何やら「膠着状態」。
彼の地に資源輸入の多くを頼っている我が国経済も未だ先行き不透明。
なのに株価だけは上がる、というのも摩訶不思議で。
そこには、やはり何かウラがあるのではないかと勘繰りたくもなるわかですが、それはさておき・・・
●「節約」する? しない?
高市政権は、あくまでも経済活動に支障がでないよう資源確保に奔走。国民向けには「安心」を強調する方向で気張っています。
一方で、一部野党、評論家などの間では、「不安」を煽れとまでは言わないまでも、「戦時下」にあって節約を呼びかけるくらいはするべきだ、という意見もあります。
それこそナフサなどは、有るという政府と、無いという企業、どちらが真実なのか、市井の一般市民には、ちょっと分からない状況です。
さて、そんな折、この先不足が予想される諸々の資源・物資について、政策として「節約」を打ち出すべきなのかそうでないのか。
私としては、これもう、正邪ではなく、好悪の問題なのかな、という気がします。
言ってしまえば「まあ、何とかなるさ」と靭やか生きるか、「明日のために今日は我慢」で縮こまって生きるか、みたいな?
もちろん、最終的には、程度の問題ということになるのでしょう。
●「安全・安心」もタダじゃない
忘れちゃいけないのは、「(自ずと)何とかなるさ」と「(政府が)何とかしてくれるさ」との間には、大きな違いがあるということです。
「安全・安心」の面で政府(行政)に頼るということは、当然、その分納税しなければならないはずで。
有事に備えるということは、平時において無駄を甘受するということ。
そこら辺は、個々人が、例えば、どういった種類でどこまで「保険」をかけるか、に通じる部分もあるかもしれません。
何か災害が起きた時、政府(行政)の「基準」等が甘かったと批判が出る。
政府(行政)は、ならばと、その「基準」等をより厳しいものへと更新していく。場合によっては、全く新しい規制制度をつくることもある。
そういったことを繰り返して、防災・防衛を含め、危機管理の枠組みはできているわけです。
●つまりは程度の問題
「有事の絆(きずな)」は「平時の柵(しがらみ)」。
何かあったときの備えは、何もなかったときの無駄。
「節約」は、それをした方が良いと考える個人・企業が、そ責任において取り組むくらいが(今の段階では)良いのかなあ、と私個人は思っているところです。
様々な見方があるにせよ、高市政権は、まあまあ上手くやってる、といったところでしょうか。
とりあえず、自身のポジションで政府の方針を評価したり批判したり、といったことは控えた方が良いかと思います。
例えば、水資源利用という観点だけで言えば、ダム(流域内貯水能力)は多い(高い)に越したことはありません。
しかしながら、ダム建設には膨大な時間と労力、お金がかかります。
我が、東三河地域における令和8年冬〜春の水不足は、結果的に「何とかなった」わけですが、だから良いというものでもありません。
暫時強度を増していった取水制限、他水系からの導水等、人事を尽くしたからこそ天命(天の恵み)も在ったわけで。
https://www.water.go.jp/chubu/toyokawa/topics/260427sessui.pdf
豊川水系で度々繰り返されてきた水不足への対応として、3つ目の設楽ダム建設が進められているわけですが・・・
その建設に反対するため、オオタカの命を守れとか、軟弱地盤の危険がどうとか、反対のための反対を繰り返してきた人達は、この間、一体どこに隠れていたのだ、という疑問でいっぱいであります。
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以下、参照記事。「安全・安心」を前面に押し立て「反対運動」に勤しむ人達のハナシです。
政治利用される「家屋倒壊等氾濫想定区域」。
政治利用される「特定避難困難地域」。








