同じお話を切り取りで、何人かの「ハッピー塾生」さんたちがあげてくれています。
すごい。明快です。
相談者は、あくせく働かなくて、のんびりしていてお金がまわってくるのを望んでいますが、それではダメ、仕事しなきゃ、と思うと
「肩に力が入って」うんざり、重くなってしまうとのこと。(望んでいるのと違う)
🌟この人は5%(不安の対策)と95%(感覚)をとりちがえている、とハッピーさん。望んでいる感覚は、いまご主人が仕事をして、自分は専業主婦で楽で、好きなことができ、そこに関してはかなっている。
でも「お金がなくなるかもしれない」という不安があるので、「不承不承仕事をしなければ」という対策に出る。
このズレ。
ハッピーさんが自分の例をあげます。
自分の活動に対して、アンチが来る。すると
「アンチがなければいいのに」と現実を変えようとフォーカスする。ほとんどの人は、5%の現実のほうが変わればいい、と願う。
そうではなくて、アンチがいようがいまいが、最高に愛されていて応援されている、安全な感覚こそが「欲しい」もの。
🌟という話をしていくうちに、この質問者さんは、「望んでいないことに自分を向けようとしていた」のに気づき、楽で好きなことをしている状態(感覚)は「すでにかなっている」と、スッキリします。
ほんとうに欲しいのは「感覚」のはず。でも、お金がなくなるかも、とか、批判されたらどうしよう、とか不安なものに目を向け、その条件を排除すればいい、という5パーセントの「概念」に向かっていってしまう。
現実が変わればいい、と。
現実改変のほうへ向かう。
「でも、いったんお金が入ってきたとしても、また同じ」
減る恐れがいつもあるので、現実に左右される幸福感のほうになってしまう。
🌟要は————ハッピーさんは、例えば自分でなく友だちがアンチにいろいろ悪く言われていたとしても、それは平気だ、と感じることができる。その感覚を自分に対しても適用できたらいい。
つまり誰が何を言ってきても、まったく左右されない状態。
🌟自分のほしい感覚が、現実によって「左右されない状態が自分の望み」だから、その心地良い感覚を望もう。
これが最終的な、そして本質の望み。
🌟ふつう、何かを望むときは、それに対して邪魔が入らなければいい、とか、ブレーキのかかる事件が起きなければいい、とか(これが5%)のほうを望んでしまいます。
でも、ほんとうは「安全安心な、自分が気持ちいい感覚」になりたいのが望み(95%)。
一択なんですね。
わかりました。
こうなったら、どうしよう、あの人がこうしたらどうしよう、こういう事件が来たらどうしよう。
幸せや願望を考えるときには、自分もいつもこの5%(現実の補正)のほうを望んでいます。
🌟かんたんでした。95%の温泉に入りにいくことにしよう、と思いました。かりにそこに雪がちらついても、温泉が圧倒的に強ければ、消えてしまう……でしょう。