大嶋信頼新刊② 「自分には愛はない」と見切ったときの自由 | hermioneのブログ  かるやかな意識のグリッド(の風)にのる

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バシャーリアン。読むことで意識が変わるようなファンタジーや物語に出会ってゆきたい。

続きです。

 

偽善者となってしまう自分……なぜ?

たとえば飲み会で人がつぶれたりしたとき、すぐ助けようとしてしまう。

 なんで、すかさず人助けに走ってしまうのか?

 

「それはみんなと一緒に楽しめないというストレスが原因です」

 

ここが実に不可思議なのですが、ストレスの炎症物質が脳の認知機能を下げる→「私はみんなより優れているという優越の錯覚」

 それで、人助けに向かってしまう。

 

🌟人助けしなければ、と思うときとは、この炎症物質のストレスから来る優越の錯覚。これがなければ、「みんな同じで助けるべき人なんていない」とわかります。ココ、独自な観点です。

 

もうひとつ優越の錯覚「よかれと思って」

 

で、しょっちゅう独走して、裏目に出た大嶋先生の体験談がいくつものっています。内省してみると、人並みはずれた「謙虚さ」を隠れ蓑にしていたり、自分の苦悩は誰にもわかってもらえないから(ほめられても嬉しくない)と、いたるところに「優越の錯覚」が隠れていた。

 

🌟こうやってしらみつぶしにしてゆくと、出てきたのは

「持ってない人」であるはずだった「私」なのに、「ものすごいプライドを持っていた」という発見です。

 

 どうしたら、「みんなと同じになれる?」

 

そして「すべてを捨てる」という第三の逆転の道が見えてきます。大嶋先生には、「自分という存在」をなくすことへの怖れがずっとあったのですが、それを捨ててみると、ぽっかりと穴があき、そこから無意識の水が湧き出して穴を満たした。

「無になることは無意識とつながること!」

 

🌟「手放す」ことには、かならず抵抗があります。

それは———例えば、尽くしている相手が、もういいよ、と自由になろうとすると、「支配」できなくなります。「捨てられたら困る」「あなたは恵まれているが、私は……」と負い目を与えて支配する。

 

 こうしてみると、すべての人間関係は「支配」しあいの、がまんのがんじがらめ。

 

🌟ここで大きな理論の飛躍が出てきます。

「意識」の中には愛はないが、「無意識」の中に愛がある。

 

 知らない人がなにげなく行っている愛の行動を、はたから見ていて、愛がある、とわかるのは、「無意識の中にだけ愛がある」から。

 

🌟たとえば親が、「○○しなければ」「してあげなければ」と思うのは「意識」なので、そこには愛がない。「無条件に愛してあげなければ」と親が意識して行動すると、それは本当の愛ではないので、子どもがそれを試すような行為に。

 

「してあげよう」と思ってする(意識の愛)場合は、感謝されないと、いらついたり、文句を言われやすく傷つく。ここから脱するには

 

「自分には愛がない」と自分の中から愛を手放す。

 

 そうすると、逆説的に、無条件の愛が発動する……

 

 意識的な愛を捨てよう!! 

 

🌟最後の章で無意識とつながる五つの方法が出てきます。

 

①肩をあげ、五つ数え、力を抜いて五つ数え、これを10回くりかえす。肩を下ろすたびに、しがらみを下ろす。ボランティアをしていた人がこれをやってみると、ボランティアの中での人間関係のしがらみを背負っていたことに気づく。

 

②夜ふとんの中で、五分タイマーをかけ、お腹の脂肪が燃焼する。と念じる。お腹が温かくなってゆく。(無意識さんにストレスの塊を溶かしてもらう)

 

③世界の中心になる。頭頂から一本の線が身体を突き抜け、地球の中心軸になる。歩く(回る)と、地球の中心軸が歩く(回る)。相手が中心ではなく「自分が世界の中心」と感じてみる。

 

④したいことを三つ、やらねばならないことを三つ、目覚めのときに頭に浮かべる。この六つを頭の中で反芻→無意識と意識が統合される。

 

⑤日没のときに「今日も一日ありがとう、これからもよろしくね」と無意識さんに心の中で話しかける。なぜかお掃除が出来るようになった人の例……(なぜか、よくわかりませんが、オーケー感が、映画の最終画面に文字で出るような感じ?)

 

そしてあとがきが一番深いです。こんな感じ。

 

🌟「手放したくなかったもの」を、この本の執筆のなかでチェックしていくと、「自己犠牲愛」が出てきた。自分はそれを「手放したら無防備になって、傷ついてしまう」と、感じていた。でも、その鎧をまとった状態でいると、すべてを攻撃と受け止め、自分の親切も相手への攻撃になっていた……それは自分が自分を信頼できない人間だと思い、相手にもそれを投影していたから。

 

————

🌟「意識を手放す」ことに尽きるのか、と思いました。

 特に倫理感の強い人、宗教的な自己束縛のある人は、けっきょく逆転した「自己犠牲=優越感」の「支配」の世界に生きてしまう。

 だから「意識的な愛」を捨てよう……

 

🌟これに対して、倫理的に無意識な人は、ここまで「せねば」と自分を突き詰めないので、自分を卑下もせず、優越感も持たず、子どものように与え、受け取ることができる。

 

「いい人になろう」「人に尽くしてあげよう」「自分を高めよう」「非力な私」……これらすべての中には、屈折した優越感がひそんでいる、というのは、実にうなずける指摘でした。

 

🌟無意識さんの海で、イルカのように、すべてを無くしてすべてを受け取る……

「私に愛はない」

ああ、大らか……