あまりにもベタなタイトルです。
しかし、これをその姿勢で書いて、ハリネズミの針のように「痛い」ところをぜんぶ表現しつくしてしまう大嶋信頼先生は、凄すぎる。
🌟もう全身が痛痒くなってしまいました。
まず「持っている人」と「持っていない人」。
「持っている人」は、自分が持っていることを知っているので、楽しく惜しみなく人に与え、みんなでもっと幸福になろう、と思い、さらに「持っている人」になる。(「推し」を支援する場合も含め)
しかし、自分もこれをやろう、みんなで幸せになろう、と(善意やボランティア精神で)思っても、「持っていない人」は与えようとすると、逆に搾取されたり、軽く見られてさらにお金が減ってゆく。見返り(運がよくなる? 神さまに認められる?)を求める気持ちも入ってしまい、偽善者と言われる・・・・・・
これは聖書のマタイによる福音書の言葉です。「持っている人はさらに与えられ、持っていない人は持っているものまで奪われるであろう」
🌟「持っていない人」体験が大嶋先生の人生を素材に、たっぷりと語られます。
そして、「持っていない人」がしてしまう、美しい「自己犠牲」の恐ろしさ。
自分を捨てても借金をしてでも「人に尽くす」「推しを支援する」それは→いつのまにか「支配欲」にすりかわっています。
妻が夫、あるいは親が子に対してする場合が一番見やすいですが、自己犠牲の苦痛は脳内麻薬で快感になってしまう。
また想像力が勝手に働いて「私がしてあげないとこの人はダメになる」「贈り物をきっと喜んでくれるはずだ」など「現実逃避」に入ってしまう。そして自己犠牲だけが「自己肯定感」の源になってゆく……
例えば「推し」活動が自己肯定感の源になると、いくらお金を使ってもやめられず、いつのまにか「推し」の相手を支配したい、となり、でも完全に相手の一挙手一投足に「支配されて」いるみじめな自分になってゆく。
「持っていない人」は、肯定感を求めて、みずから搾取されることを求めてしまい、苦痛のもたらす脳内麻薬のせいで「愛しているからするのだ」だ、と錯覚する……
🌟ほんとうに怖い、わかりすぎる怖さです。
「持っていない人」であることが諸悪の根元……
ああ、わかりすぎる。
🌟またボランティア活動や献血、ヘアドネーションなどに打ち込むことも、実は幼児期に恵まれなかった自分を、まわりの不幸な子どもに投影して、それを救おうとしている場合も……という指摘もありました。
「かわいそう」「なんとかしてあげなければ」と思ったときには、「これって、自分の傷を相手に投影しているのかもしれない!」と疑ってみると、心の傷のくりかえしから抜け出せます。(p.87)
🌟また無条件の愛、のつもりで相手に対して自己犠牲をしていると、相手は、その無条件の愛を、「じゃ、どんな自分でも愛されるってどういう愛?」と、そこをしっかり疑って、試すようなことをしてくる……
見返りを求めずに親切にしよう、とすると、「私がいないとこの人はだめになる」と「神の全能感」にはまりこんで、相手を支配することになってゆく……(無償の「救いの神」を演じると、相手をダメにしてしまう。)
自己犠牲を払って相手を支配する神
↑すべての人間関係の不調を言い尽くしているような言葉です。
また過剰に感謝したり、へりくだったりする人は、実は低い立場を利用して相手を支配できる→実は査定してほめる、という形で相手を支配しているので、相手の欠点や自分の思いこみを裏切るような点を見つけると、掌を返したように怒ることができる。
🌟一方的な愛ではなく、ギブ&テイクこそが本来の愛だ、というのが本書の結論ですが、とりあえず本の前半部分はここまで。
後半は「持っていない人」が、実は隠し持っている「よかれと思う」などの神的全能感などの優越感の話。
これまた痛い……。そしてすべてを手放すと、無意識さんからわきあがる万事如意のふしぎな愛。